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掛川西高100周年 天守の杜に

第2部 部活動編 精神野球

甲子園めざし猛練習 青年監督が5カ年計画

初出場で甲子園入りした野球部員。2列目中央が小宮監督

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 「掛川中を全国に通用するチームに育てる力を貸してほしい。それができるのは君しかいない」

 「分かりました。そこまでおっしゃるなら…」

 昭和七年の春、九代校長・多木悦造の説得を受けて、東大野球部出身の小宮一夫が内なる闘志を胸に着任した。

 同五年春の東京六大学シリーズ打撃十傑で第5位にその名を残すスラッガー。しかし、青年監督・小宮が目指したのはむしろ守備力の強化だった。甲子園を明確な戦略目標に据えた「五カ年計画」を立てて、猛練習を開始した。

 「守備を重点にした練習は厳しく、毎日、ボールが暗やみに見えなくなるまでやった。それでもノックを打ち続ける監督の、手に巻いた包帯の白さが痛々しかった」と西村猛熊(昭11卒)=金谷町金谷。

 五年がかりで小宮が取り組んだのが、優れた投手の養成と徹底的な守備固め。投手では後に“東海の速球王”と呼ばれる村松幸雄(昭13卒・故)、野手では杉山賢司(昭14卒、同)、鈴木正義(昭14卒)=浜松市河輪町=、笹野真一(昭16卒)=藤枝市前島=らを県内各地の小学校からスカウト。遠距離通学の時間を少しでも練習にと、自宅近くの離れに住まわせ、食事などの面倒をみた。

 「とにかく大声を出して気合を入れる“精神野球”でした。体の真正面でボールを捕球しろ、ともよく注意された。ある日、だらだらと練習していたら『疲れなど一晩寝ればとれる!』とグラウンドで特大のカミナリを落とされた」と笹野。

 小宮の指導は次第に成績に現れ、それまで県大会で大差で初戦敗退を続けていた掛川中は、昭和九年に準決勝進出、十年からも三年連続で2回戦へ進み、強豪・浜松一中や島田商と互角に渡り合うまでに成長。十三年にはとうとう決勝戦まで進み、島田商に1−5で敗れはしたが、再び甲子園切符をかけて臨んだ山静(山梨・静岡)大会では1−0で島田商を破り、五年計画が一年延びたものの、見事に甲子園初出場を果たした。

 就職も小宮の世話になったという平野哲次郎(昭9卒)=金谷町金谷=は「運動会で万歳三唱のとき、私だけうっかり“四唱”してしまい、担任の小宮先生から三日間の自宅謹慎を食らった。ところが、先生は毎日、練習が終わると、わざわざ金谷の家まで様子を見に来て、陰で心配してくれていた」と話す。

 「毎日五十分のノックを受け、おかげで八十歳になった今でもキャッチボールぐらいはできますよ」と笑う西村や、「体がなまると、これで素振りをするんです」と、今も愛用のバットを握る七十七歳の笹野。

 小宮は甲子園初出場の年の暮れ、「責任を果たした」と監督を辞して母校・東大の事務方へ転出。その後、再び静岡県へ戻り、静岡市教育長や静岡市商校長、初代の県高野連会長などを歴任した。

(文中敬称略)

 

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