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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 アスパック闘争

歴史的評価さまざま 学内騒然…

”掛西紛争”を伝える当時の新聞記事

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 その男性(49)は掛川西高の卒業生名簿に名前がない。本来なら昭和四十四年度の卒業だが、三年生の夏休みに退学した。「悪いことをして、という気持ちは今もない。ただ、あの時代が問いかけた価値観を理解しようとした。それが学校には受け入れられなかった」

 ベトナム戦争がし烈を極めた一九六〇−七〇年代。髪を肩まで伸ばしたヒッピーが流行し、街にビートルズの歌が流れた。高度経済成長の傍らで、全共闘運動が全国の大学を席けん、その余波が高校にも及んでいた。

 昭和四十四年六月九日、アメリカのベトナムへの本格介入が始まる中で伊東市でアジア太平洋協議会(ASPAC=アスパック)閣僚会議が開かれ、それに反対を叫ぶ学生らがデモと投石で機動隊と衝突。四十六人が公務執行妨害などで検挙され、デモに加わった掛西の生徒八人のうち四人が逮捕される事態となった。

 学校は参加した生徒を無期限の自宅謹慎としたが、この処分をめぐり生徒と学校側が激しく対立、新左翼セクトも乗り込んで全国に知られる“掛西紛争”に発展した。

 「処分の理由はアスパックのデモに参加したというだけではない。無許可で校内に大量のビラを配ったり勝手に放送室を占拠するなど、それ以前からの一連の違反行為に対する正当な判断だった」(当時、教務主任だった上圷和之=後に校長、掛川市葛ケ丘)

 校内では、謹慎中の生徒が弁論大会に乱入して学校を批判。退学処分を受けた生徒も加わった集会を開くなど、紛争は日ごとにエスカレート。八月には部外者も含め約三百人が掛川公園に集結し「処分撤回」「安保反対」を訴えて市内をデモした後、一部が校舎内に突入。機動隊と乱闘の末、生徒七人を含む十一人が逮捕された。

 当時PTA会長だった掛川西高後援会長の戸塚宏(昭11卒)=掛川市倉真、元県議=は、校長室にいてその一部始終を目撃した。

 「(生徒たちが逮捕される)その光景を目にした瞬間、私は涙がこみ上げて止まらなかった。かわいい後輩たちが、自ら母校始まって以来の危機を招いている。警察の護送車に乗せられていく子供たちの後ろ姿を、私はおそらく一生忘れることができません」

 自主退学を含め退学・謹慎処分十二人を出した、あの事件から三十年。当時の三年生たちの“歴史的評価”はさまざまだ。

 「活動に加わったのは成績優秀者ばかり。早熟ではあるが、志ある行動で誇りに思う。その種の運動に高校生が参加してはいけないという明確な理由もなかった」(袋井市男性)

 「私なんかは、進学にかかわる時期によくやるなあ、と冷めた目で見ていた」(掛川市男性)

 「参加者の中には親友の女子生徒もいた。主張に共感できる部分もあったけど、授業を抜け出したり妨害したのは、今考えてもよくないと思う」(森町女性)

 前出の男性は退学後、東京の高校に編入し、現在は会社社長として活躍している。茶髪、ピアス、ルーズソックス…。現代の高校生が主張する「自由」の中に、自分なりの表現や主体性があるのか。みんながやるからそうするだけじゃないのか−。戦後の学校教育と、そこに“安住”する若者たちに向かって、男性は今も異議申し立ての手を下ろそうとしない。

 「教育改革が叫ばれる今、もう一度、あの出来事が検証される必要があると思う。やり方は批判されても仕方がないが、自分の高校生活は決してつまらなくはなかった。時代が変わっても、学校をつまらなく感じたまま巣立っていく若者は多いのだから」

(文中敬称略)

 

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