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掛川西高100周年 天守の杜に第1部 校史編 男女共学最初から平等に 欠かせぬ女性の力
戦火を免れた掛川中学に、戦後、六・三・三制、学区の指定−と、さまざまな学制改革の波が押し寄せた。昭和二十四年に始まった男女共学も、新生・掛川西高を象徴する一つの大きな波だった。 女性第一号の角替若代(昭25卒)=東京都在住=が入学後、次々と女子生徒が校舎をかっ歩した。名簿順も男女混成。家庭科も、女生徒専用のカリキュラムもなし。「最初から男女平等に扱われたのはうれしかった」と、村上淳子(昭30卒)=常葉学園大教育学部専任講師=は当時を振り返る。 旧制中学の「バンカラ」が色濃く残っていた時代。ひげをはやした“怖い”先輩からは、野球の応援練習で「声が小さい」と怒鳴りつけられ、女子だけ起立して発声をやらされた。「女という理由で甘やかされることはありませんでした。男女が仲良く口をきいたりはしなかったけれど、見くびられることもなかった。得意な教科については、男子から質問も受けましたしね」 新制度と女子生徒の存在に戸惑い、「豚に真珠、女性に数学」「女子がいると学校全体の学力が下がる」と放言する教師がいたことも事実だ。その一方で、授業を通して「女性尊重」を訴え続けた教師もいた。故田島久平だ。杉村繁蔵(昭28卒)=掛川市議=が覚えている田島は「小柄で温和。だが力強く話す人だった」 田島は、女学校で十年以上教べんをとり、戦時中は女生徒を率いて軍需工場での作業にもあたった。その体験からか、一般社会の授業で、制定されたばかりの新憲法や女性参政権、民主主義を説く時、必ずといっていいほど「日本の社会が強くなるには、女性の力は欠かせない」と繰り返した。 中学も男女共学だった杉村には「女性尊重に違和感はなかったが、正直、何で田島先生はこんなに熱を込めて話すのかと思った」ほどだ。「でも、男らしさと女性を対等に見ることは、両立するのだと学びました」 後に中学校教諭となった村上は「男と同じように仕事をするのは当たり前。それは高校時代に培われた考え方だ」と話す。だから静岡市立南中学校長に就任した平成八年、「女性」校長として新聞が紹介したことに、いまだ違和感をぬぐいきれない。「掛川西高で育った私にとって、女性であることは仕事の内容と直接関係ないことですから」 戦後、いち早く男女平等を深く受け入れた掛川西高。今、同校の男女比はほぼ一対一になり、毎年、さまざまな分野へ女性を輩出し続けている。 (文中敬称略) PR情報 |
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