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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 戦時下

歌え踊れの送別会 すべて軍事優先

戦時中当時を語る山本光さん=森町の自宅で

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 昭和十七年七月二十七日 今日は午前中四時間ぶっとおしの教練であった。

 同八月一日 二年生全体の耐熱行軍が行われた。約三里半の距離だった。

 朱色の表紙に軍艦が描かれた日記帳を、山本光=森町=は懐かしそうにページをめくる。山本は、太平洋戦争が始まった昭和十六年に掛川中に入学。戦闘帽をかぶり、軍事教練と勤労奉仕に明け暮れた。四年生の八月、学徒動員で愛知県枇杷島へ。二十年三月、一年繰り上げての卒業式は工場で行われた。そのようすを、日記に克明に残している。

 昭和十八年七月十二日 三八式歩兵銃を持って、「担え銃」「立銃」「捧銃」の訓練を行った。今まで軽いとばかり思っていたが、いろいろな動作をやってみて、何と重い銃だろうと吃(きっ)驚した。

 同七月二十日 手榴(りゅう)弾の投擲(てき)練習をした。なかなか遠くまでいかず苦労した。

 三年生になると銃剣術を習い、米軍の戦車へ手榴弾を手にして突っ込む模擬練習もさせられた。「今では許されないことです。しかし当時はすべてが軍事優先で、疑う余地も与えられなかった」

 掛中でも、派遣将校の指導の下、軍事教練はエスカレートしていった。校舎は、床を取り払って旋盤が置かれ、軍需工場と化した。生徒たちは授業の代わりに、勤労奉仕で農家に手伝いにも行った。

 そんな生活に彩りはほとんどない。「面白いことに、日記には女性のことは一行もないんです」。教師の引率で見た戦争ニュースや軍事映画が唯一の娯楽だった。

 中学生は卒業すれば戦場に送り出された。健康である限り、軍に志願するのが当然で、同級生のほとんどが海軍飛行予科練習生の受験を希望した。「ですが、数学教諭は『軍へ行くことだけが国のためではない。しっかり考えろ』と言ってくれた。当時では勇気ある発言ですよね」

 予科練に合格した同級生四人を送り出すため、食べ物を持ち寄り、歌え踊れのどんちゃん騒ぎをした時のこと。「個人で映画館に行っても体罰を受け、謹慎処分になる時代。騒ぎはすぐさま耳に入ったはずなのに、なぜか先生方は見逃してくれた」。この送別会は山本の中学生活の中で、特に楽しかった思い出として焼き付いている。

 卒業写真さえなかった戦時下。精いっぱい生きた自分たちの体験を記録に残そう−と石原廣未=静岡市=が発案し、企業小説作家大貫満雄=東京都=や馬場成夫=同窓会評議員、掛川市=、関鉄男=菊川町=らが編集を買って出て、平成六年「掛中昭和十六年入学生の記録 あゝ青春の血は燃ゆる」が発刊された。同期生六十八人が原稿を寄せ、山本も日記の抜粋を四十三ページにわたって掲載した。暗い時代を、それでも懸命に生き抜いた若者たちの体験の一つひとつ…。ページを開けばいつも鮮やかに当時がよみがえり、戦争の愚かしさを後輩たちに伝えるのだ。

(文中敬称略)

 

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