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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 校歌と校旗

“硬派”の伝統象徴 濃紫色の2種存在

校旗と同じデザインの大応援団旗。伝統のシンボルだ=掛川西高で

写真

 「ほな、また近いうちに甲子園で会いましょ」

 平成十年夏、全国の高校球児が集う甲子園球場での1回戦。和歌山代表の智弁和歌山に2−5で惜しくも敗れた掛川西ナインを、優しいまなざしで見届けた藤井学(73)=兵庫県三田市在住=は、学校関係者にそう伝えて球場を後にした。

 「掛西とわしは甲子園が結ぶ縁ですな。地元兵庫の代表校よりも掛西の方が気になる。家も甲子園から電車で約一時間。体が達者なうちは応援に行くつもり」

 藤井の亡父、金吾は掛川西高の前身・掛川中で、在職時に校歌の作詞を手掛けた国漢教諭。時代は下り、創立六十年を迎えた昭和三十六年春、野球部の甲子園出場が決まり、当時の岡田嘉須雄校長(故人)が兵庫県に住む遺族と連絡を取って以来、藤井家と掛西の関係が今も続いている。

 この校歌二番の力強い歌詞を聴くと、厳格だが生徒たちに慕われていた亡父を思い出すという藤井。「百周年の節目にも甲子園で一緒に校歌を歌いたい」と後輩に熱い期待を寄せる。

 校歌と並び、学校の象徴といわれるのが校旗。掛西には昭和三十年に制定された現在の校旗と、大正四年から伝わる掛川中時代の校旗が存在する。ともに濃紫色で中央に校章の金刺しゅうがあるが、掛川中の校旗には、掛川西高にはない三本の白線が旗全体を横切るように、くっきりと染め抜かれている。

 「それは、掛川の『川』にちなんで入れられたものなんですよ」と、平松哲夫(昭15卒)=東京都在住=が教えてくれた。平松は先輩から伝え聞いたそのいきさつを卒業前の文集に記している。

 文集によると、大正四年十一月、大正天皇即位の際に、記念事業として何をすべきか生徒の間で議論が重ねられ、教職員と費用を出し合って校旗を制定することに決まったという。デザインは当時の図画担当教諭、丹羽五十吉に託し、大礼奉祝式に合わせ、校旗制定式典が盛大に催された。

 校章部分は、掛川の名産・葛の葉を三枚組み合わせ、葉の間に掛川藩主太田氏の家紋であるキキョウのつぼみをあしらっている。「このデザイン自体は、現在の校旗も変わっていないはずです」。東京暮らしが長い平松は、卒業アルバムをくりながら、久しく遠ざかっている母校を懐かしんだ。

 校歌と校旗と言えば、すぐ連想するのが応援団。現団長の松浦要介(三年)からは「百周年といって、これまでの応援スタイルは変わらない。校歌・校旗は学校の看板で、在校生がその意味を理解していなければ、先輩が受け継いできた掛西魂が途絶えてしまう」と硬派の伝統が口をつく。風雪に耐えた大応援団旗も校旗と同じデザイン。旗手の足立和久(同)は「旗の重みが伝統の重みです」と、微動だにせず言い切った。

(文中敬称略)

校歌2番・・・

 雨降り嵐すさぶとも

 指してや行かむ小笠山

 希望の懸を

 射るまでは

 めげず 撓まず 

 屈折れず

 

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