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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 掛中の誕生

立地“綱引き”し烈 3番手決定で大騒動

掛中開校期の校舎

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 掛川西高の前身となる県立掛川中学の開校は明治三十四年。同十三年にできた掛川中が文部省の一県一校方針によりわずか六年で廃止され、長い空白ののち、中等教育機関がようやく地域に戻った。しかし「掛川に何としても中学校を」という地元の請願運動が強かった分だけ、その立地をめぐる綱引きはし烈を極めた。

 第一候補に挙がったのは現在、掛川東高がある神明町の正願寺前。第二候補が六軒町で、最終的に決まった掛川城内の通称「お花畑」は三番手だった。おおかたの予想に反するこの決定が、裁判ざたまで起きる大騒動に発展した。

 「お城のお花畑って聞けば、だれだってのどかでメルヘンチックな場所を思い浮かべるでしょ。でも、実際はかなり違ったんだ」。現存する卒業生では最長老格の書道家、倉山雪州(本名・貞市、大12卒)=沼津市牛臥=が言う。

 「昔の城には城主お抱えの医師がいた。お花畑の地名は、医師が薬草になる草花を栽培したことから付けられた呼び名じゃないかな。わしらの在学当時、そんな形跡は全然なかったけどね」

 一説には城の牢獄(ろうごく)もあったといわれ、広さは申し分ない。が、最大の難点はすぐ南を流れ、はんらんを繰り返す逆川の土砂による地盤や水利の悪さ。加えて、掛川随一の遊郭に近く、芸妓(ぎ)さんらのなまめかしい姿が校舎から目と鼻の先に見えてしまう風紀上の問題だった。

 一方、第一候補の正願寺前は旧藩士の邸宅が多く、花街から遠く水害の心配もない。だが、南北を墓地、西は急な坂道に囲まれ、中学校の敷地には狭すぎて拡張も難しいという欠点を抱えていた。

 当時の静岡民友新聞には「掛川の醜事」と題し、連日のようにお花畑への中学立地を批判する記事が掲載されている。

 明治三十三年五月九日付紙面で、同紙が用地売買をめぐる業者から郡役人への贈賄疑惑を報じたことに郡側が官吏侮辱罪で告訴。文部省の設立認可後まで紛糾が続く、多難の船出となった。

 「開校前まで時代をさかのぼると、事情を知る人は少ないね。私たちの時代には、敷地の地盤が問題になることはなかったし、繁華街が近いからといって格別、不道徳な環境でもなかった。とにかく勉強、勉強で厳しく、それどころでなかった」というのは、元静岡県副知事で現在、常葉学園大学名誉学長の諏訪卓三(昭和元卒)=静岡市上沓谷町。

 初年度の入学生徒は一年生百人、二年生四十四人で、初代校長は前茨城県立高等女学校教諭の柳生寧成。待望の開校式には三百人以上が列席、当日は昼夜を問わず花火が打ち上げられ、近隣の町でも各戸に日の丸が掲げられた。

(文中敬称略)

 

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