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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 学校林

生徒総動員で植樹 新たな形で思い出

植栽から60年たち、堂々の大木に育った学校林

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 見渡す限りの空間で、ヒノキが空に向かってそそり立つ。幹を抱きかかえると、ちょうど大人の腕の中に収まるぐらいだ。掛川市の北に位置する丹間せど山の中腹。小指の細さだった苗木は、六十年の歳月を経て、林業家が「なかなかのもの」と評価する大木群に成長していた。

 昭和十五年四月。掛川中で、皇紀二六〇〇年記念にあやかり、学校林の植樹が計画された。当時は鉄筋校舎など夢にも思わなかった時代。「いつか、自分たちの手で立派な木造校舎を」との願いからだった。

 故戸塚廉平教諭(明38卒)の土地を借り、六千坪の山地にヒノキ、スギ計六千本の苗が植えられた。「生徒も先生もよくやったと思う。今じゃあとてもできんよ」。今、この土地を管理する二男の戸塚宏(昭11卒)=掛川西高校後援会長、元県議=はこう語る。

 なにせ、学校から山のふもとまでは十キロ以上。でこぼこの砂利道を自転車や徒歩で移動する。ふもとから目的地まではさらに、幅四十センチに満たない、人が踏み固めただけの急しゅんな道を、くわをかついで三十分も登り続ける。林道開設から枯木処理、植樹と、作業には二年生以上の生徒二百七十人が駆り出され、学校あげての大仕事だった。

 もちろん、木は植えただけでは育たない。学校に残された記録によれば、終戦直後に一時中断したが、生徒たちは何度も何度も下草刈りに山へ入った。鈴木忠夫教諭(昭19卒)が夏休みに柔道部の生徒を引き連れ、山中の小屋に宿泊しながら枝打ち・間伐作業をしたこともある。生徒たちを手伝った戸塚は「この時の作業があったからこそ、いい木が残った」と回想する。

ヒノキの丸太をそのまま装飾に使った資料室

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 だが次第に「生徒を山へ行かせるのは危険だ」との風潮が強まり、昭和三十一年の間伐作業を最後に、学校林の存在は忘れ去られる。訪れる人もなくなったこの場所が再び注目されたのは、つい最近のことだ。

 「ヒノキは卒業生から受け継いだ有形の財産。何かの形で使えないか」−同窓会からあがった声は、創立百周年事業で校舎南側に建設した記念館に生かされた。内装材に、この木材がふんだんに使われたのだ。

 一階奥の資料室。壁際にヒノキの丸太を何本も立て、森林を表現した。「ところどころ節はあるが、それは愛きょう」と戸塚。三階の自習室では、ドーム型天井の全面にヒノキ板が張られた。この館で、卒業生は談笑し、在校生は放課後、勉強をして過ごす−。学校林の思い出は、また、新たな形で共有されていく。

(文中敬称略)

 

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