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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 名校長

太っ腹、人情家・・・壇上で校歌蛮声

校舎前にあるケヤキの木

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 掛川西高の正門をくぐって校舎へ真っすぐ進むと、一本のケヤキの木に行き当たる。巨木とはいえない高さだが、枝ぶりは良く、職員・来客用駐車場のロータリーの役割を果たしている。

 「この木はね、もともと岡田嘉須雄先生の自宅の庭にあったんです」。同窓会長の鈴木忠夫(昭19卒)=磐田東学園前理事長=が懐かしそうに見上げた。同校の創立九十周年(平成二年)の折、学校の玄関口にあたるこの地に、掛川市倉真の報徳神社のケヤキを移すことになった。同神社は掛西の前史、冀北学舎の跡地に建っている。

 「ところが神社の木はどれも大きすぎて運べない。困り果てていると、岡田先生が『よし、それなら私の家のケヤキを持っていけ』と、事も無げに言われましてね。太っ腹な名校長でした」。名校長――。判断基準は定かでないが、掛西の場合、第十五代の岡田嘉須雄(大11卒、故人)は間違いなくその一人だ。OBらが知る岡田は人情家で、教育への使命感に燃えていた。昭和三十年秋、校長新任式の壇上から「諸君、一緒に校歌を歌おうではないか」と呼び掛け、在学当時に歌い慣れた歌詞に蛮声を張り上げたという逸話も残る。

 学生寮建設や奨学制度の新設など、母校の教育環境の充実に尽力。生徒や教職員の面倒見もよく、歴代校長を食事会に招いて助言や指導を求めることもしばしばだった。昭和三十二年には、国体のレスリング会場となった掛西に天皇・皇后両陛下が来校され、その案内役を務めた。当時、二年生だった県知事の石川嘉延(昭33卒)は「岡田校長の緊張感に満ちた、それでいて何とも晴れがましいモーニング姿が今でも思い出される」と、亡き恩師の面影をしのぶ。

 岡田のほかに名校長を挙げるなら、第二代・小松倍一(故人)、第九代・多木悦造(同)など。小松が着任した明治三十八年当時は、指導の厳しさから授業放棄の同盟休校が頻発していた。どう収めたかは不明だが、着任するや、小松はわずか数日で騒ぎを収拾、以後ぱったりと沈静化させている。多木は昭和二年から十三年間にわたって校長を務め、その間、野球部が甲子園初出場を果たすなど、文武両道の礎を築いた。

 「隠れた名校長として市村先生を忘れないでほしいですね」というのは、名古屋市在住の石山哲司(昭19卒)。第十一代の市村清次郎(故人)は在任期間が昭和十六―二十二年で、暗い戦争時代を丸ごと背負った。戦後、戦犯扱いで教職を追放されたが、「当時の軍国主義に染まった人ではなく、立場上の責任を取らされた」「苦しい時代、生徒たちの人望はとりわけ厚かった」という教え子の言葉が多いことを付け加えておきたい。

(文中敬称略)

 

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