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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 冀北(きほく)学舎

「優秀人材を世に」 報徳の実学 柱に産声

冀北(きほく)学舎の跡地に建てられた

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 風に揺らぐ竹やぶのざわめきと、鳥のさえずりだけが聞こえる静かな山あい。周囲の茶畑に溶け込むように、ひっそりと小さな神社が建っている。入り口付近の二宮金次郎像で、そこが「報徳神社」だと分かる。

 「ここは昔、秀才たちが住み込みで修業していた私塾だった。少し南へ登ると岡田良一郎の墓があるよ」。小径(みち)を通り掛かった農作業の男性が、茶畑の向こうの丘を指さした。

 明治十年七月、西南戦争も真っ最中のころ、掛川市北部の倉真地区に私塾「冀北(きほく)学舎」が産声をあげた。斎主(校長)岡田良一郎は後に佐野・城東郡郡長を務めた素封家の当主。幕末期の済民思想家・二宮尊徳に傾倒し、その教えを遠州一円に広めた。冀北は中国の名馬の産地で「優秀な人材を多く世に送り出す」との意気が込められた。

 「毎朝日出ヨリ半時以前ニ起キ夜十時寝ニ就ヲ以テ定規トスト雖トモ、其余勉強ハ其志ニ任ズ」(冀北学舎塾則=掛川市史資料編より)。本宅裏の建物二棟を開放した全寮制で、報徳の実学を柱に英学、漢学を教えたという塾の様子について、大日本報徳社(掛川市)の常任参事堀内良(昭20卒、元中学校長)が著書「冀北学舎」に書いている。

 「特色は英学に最重点をおいたことである。(中略)冀北学舎の英語教育のレベルの高さは、例えば明治十八年に英語重視の海軍兵学校試験で、静岡県からは十三名が受験し、厳しい学力検査の結果二名が合格したが、いずれも冀北学舎出身者だったことからも推察できよう」

 同学舎は公教育が始まって後の明治十七年に門を閉じるが、その間、机を並べた者の数は三百人以上。良一郎と縁せきにあたる岡田茂(昭11卒=倉真報徳社長)は、その“門弟”の中から傑出した人物の一人に松本君平の名を挙げた。

 松本は冀北学舎から二十一歳で米国へ留学し、大学で政治、経済を学んでニューヨークのヘラルド・トリビューン紙記者に。帰国後、東京新聞などで健筆をふるい、政界入りして日露講和のポーツマス会議にも列席。のちに蒙古独立運動に首を突っ込み、孫文と通じて辛亥革命後の広東政府の顧問に加わっている。

 その破天荒な生涯を、茂は「彼は冀北学舎の申し子。語学に優れ、冀北の原野を駆ける、まさに俊馬のような人だった」と表現する。

 明治十三年、前期・掛川中学が誕生すると、良一郎は初代校長を兼務。が、明治政府の「一県一中学」方針から同校は短期間で浜松中学などに合併され、本格的な公教育の開花は今日の掛川西高の前身となる新生・掛川中学の開校(同三十四年)まで待つことになる。

 掛川市の中心部にある大日本報徳社。そこには冀北学舎の役目を終えた古い木造二階の建物(市指定文化財)が今も保存されている。

(文中敬称略)

 

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