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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 「母校と私」 掛川市長 榛村純一氏

放浪…永平寺で修養 『文武両道』と冒険勧めたい

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 地元、掛川市政のさい配を振るっている榛村純一市長も、掛川西高校の卒業生だ。父親の故榛村専一氏や弟妹、息子・娘もすべて同校出身で、親子三代の「掛西一家」。地元に暮らし、掛川の発展と変ぼうを見つめ続ける榛村氏に、高校生活の思い出や、たゆまなく人材を輩出する同校への期待を聞いた。

 ――榛村氏が掛川西高に入学した年は昭和二十五年四月。敗戦の打撃と食糧難の時代である一方、外国の翻訳小説が出回り始めた時期でもあった。

 高校の時は掛川座に映画を見に行ったり、小説ばかり読んでいた文学青年だった。サルトルやボーボワール…、いわゆる実存主義にかぶれてね。二年の終わりごろに、生意気にも「人生を見終わってしまった」と感じて家出した。各地の盛り場や名所をほっつき歩いて、最後には永平寺(福井県永平寺町)にたどり着いた。そこで一カ月ぐらい修養していたら気持ちが落ち着いたので家に戻った。

 ――寺から連絡がいったせいか、家族は私をほっておいてくれた。学校に戻った時も、周りは「出てきたんだな」という雰囲気で、私は何の抵抗もなく高校生活を再開できた。牧歌的というのか…。当時はいじめもなく、本ばかり読んでいる一風変わった生徒でも、そのままの個性が受け入れられていたと思う。

 「岩根こごしき天守台 その麓にぞ我が校は−」の一節で、掛川西高の校歌は始まる。この歌詞そのままに掛川西高、そして掛川市全体には、城下町の歴史と生活を支えた報徳の精神が今も生きている。

 勤労、分度、推譲という報徳精神は、市政運営にも影響している。その事例が、人口八万人弱の小都市ながら、新幹線掛川駅の建設で市民募金三十億円が集まった。山内一豊が築城した天守閣を平成六年に木造で復元した時も募金は十億円。米国オレゴン州には農場七十二ヘクタールの「かけがわ生涯学習村」があり、毎年、中高生らを派遣しているが、この農場購入にも市民から三億円が寄せられた。その惜しみないまちづくりの情熱が、掛川市の名を全国に広めた。

 ――掛川西高の一般的なイメージは「野球が強い伝統校」だ。平成に入ってから同校は三回、甲子園に出場している。学力のレベルアップを狙って十年前には理数科も設置され、掛川中学時代から続く「文武両道」路線を一層押し進めようとしている。

 これからは、理数系の強い生徒が社会で活躍することが必要だと思っている。掛川西高も、今以上に理系に強くなってほしい。そして三年に一度は甲子園に出場してほしい。どの生徒も高校生活で一度は甲子園の熱情を体験できれば、大きな財産になるのでは。

 オレゴン農場には市内三高校から、十年間で二百五十人を派遣した。しかし応募の八割が女性で、男性に「何でも見てやろう」という積極性がない気がする。自分が高校時代に放浪を経験したせいか、若者にも旅の冒険を勧めたい。

 今、掛川市が事務局になって四つのサミットを開いている。糸魚川から相良までの塩の道ルートを、二十一世紀の生涯学習街道としてよみがえらせる「塩の道会議」。茶園が百ヘクタール以上ある全国の九十五市町村の「全国茶サミット」。そして「二宮尊徳サミット」と「山内一豊&千代サミット」だ。掛川西高の生徒にはこれらのどれか一つに参加し、例えば塩の道三百五十キロを折に触れて歩いてほしい。

(文中敬称略)

 榛村 純一(しんむら・じゅんいち)氏 昭和9年、掛川市生まれ。28年3月、掛川西高卒。52年9月、掛川市長に初当選し現在6期。全国初の生涯学習都市宣言や市民募金の新幹線掛川駅建設土地条例などで掛川市を一躍有名にした。著書は「山とむらの思想」「分権の旗手」など多数。

 

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