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掛川西高100周年 天守の杜に

第1部 校史編 今なお「冀北」の光彩 純粋・・・反骨を内に 根づく報徳の教え

かつて”東海の名城”と呼ばれた掛川城(再建)の懐に抱かれ、キャンパスを広げる静岡県立掛川西高校=本社へり「あさづる」から

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 お城と学校−。この二つの建築物がどことなく似通うのは、人々の心の中の“仰ぎ見る”という共通項のせいだろうか。戦国大名・山内一豊が築き、平成六(一九九四)年、市民募金で復元された掛川城天守閣。その眼下の杜(もり)に今年、創立百周年を迎える県立掛川西高校のキャンパスが寄り添うようにある。明治三十四(一九〇一)年の開校から、「質実剛健」「文武両道」の校風に学び、巣立った卒業生は二万一千人余。“野球の掛西”の看板にも象徴される、骨太な青春群像を探ってみる。

 掛川西高の同窓会は「冀北(きほく)会」と呼んでいる。冀北は中国の俊馬の産地。同校の前史となる明治十年、佐野・城東郡(現在の掛川市・小笠郡)郡長、岡田良一郎によってこの地に開かれた私塾・冀北学舎がその名の由来だ。

 江戸末期の農政家・二宮金次郎(尊徳)の四大門人の一人といわれた岡田は、そこに近郷の子弟を集めて、疲弊した農村の再建と家産再興を図る報徳の実学を教え、時代のすう勢を見て当時、いち早く英語教育にも力を入れた。公教育に座を譲るまでわずか七年の存続期間だったが、塾生からはのちの文相岡田良平、宮内大臣一木喜徳郎、東京帝大教授山崎覚次郎らが出た。前史とはいえ、同校の沿革には、この「冀北」の二文字が今日まで少なからぬ光彩を放っている。

 社会と自然の恵みに感謝し、勤倹節約により得た富を譲り合う−。仕法(しほう)と呼ぶ報徳の教えと、明治以後の日本の産業発展の関係について、地域経済論が専門の佐々木崇暉(しゅうき)・静岡文化芸術大教授はこう指摘する。

 「浜松を中心とした遠州地方は、外国の資本や技術に頼らずに近代産業が発展を遂げた、わが国でもまれな地域だった。仕法はぜいたくを慎み、自らの分と度をわきまえて計画を立てるという、今で言う堅実経営。ヨーロッパでぼっ興期の資本主義のバックボーンとなったのがプロテスタントの職業倫理や隣人愛だったように、報徳思想がこの地方の地主や豪農たちの心をとらえ、殖産に励んでその富を社会に還元していったことが背景にあるのではないか」

 多様化の時代、ある学校と卒業生の「カラー」を一口で言い尽くすことはもちろん不可能だろう。しかし、掛川西高の場合、卒業生自身の間にこんな意見が多いのもまた事実だ。

 「全般的に地味で純朴。派手さがなく性格はおとなしいが、その分、反骨を内に秘めている」=二十四代校長で現同窓会長の鈴木忠夫(昭19卒)。「昔も今も変わらないのは、友人をなにより大切に思い、何か困った時にはお互い助け合うという気風」=同校百年史編集部長の松井哲(同)。

 復元された掛川城の、日本初の本格木造という三層四階の天守閣からは、校舎の前を大きく蛇行する逆川が倉真川と交わり、JR掛川駅から南に小笠山、北には一直線に延びる主要地方道・掛川川根線のかなたに粟ケ岳と南アルプスを一望する。中東遠地域の教育のあけぼのから百年の今日、若者の心を包み込むように、変わらない雄大な自然が広がっている。

(文中敬称略)

 

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