トップ > 静岡 > 高校・大学周年特集 > 磐田南高校80周年 > 記事

ここから本文

磐田南高校80周年 磐田が原の台地に

第1部 校史 定時制 つらくも充実した時代

昼間定時制の下校風景。バスで工場と学校を往復していた

写真

 時代は高度成長の真っただ中。南高の夜間定時制がスタートしたのは、昭和三十七年。創立四十周年の年だった。生徒四十人で、最初は教師もそろわず、足りない科目は全日制の教師が教えた。いろいろな事情から全日制に通えない生徒は、昼間は仕事をして夕方学校に駆けつけた。

 「学校へ行きたい」。定時制の生徒の思いはこの一言に尽きた。准看護婦として磐田市立総合病院に勤めていた一回生の宮地洋子さん(57)=磐田市見付、旧姓・密岡=は「みんな卒業するために熱心で必死だった。でも、今から思えば、充実していて楽しかったのかな」と目を細める。昨日より今日、今日より明日の暮らしがよくなることを確信していた時代でもあった。

 定時制でもう一つ忘れてはならないのは、わずか十四年で幕を閉じた昼間定時制だ。開設は昭和四十二年。遠州レース工業、帝国繊維といった繊維会社などで働く“金の卵”たちが、全国から集まった。「自活しながらの勉強。みんな一生懸命でいい子が多かった」。八年間教え、浜松北高校校長からこの春、県中央図書館長となった恩田征弥さんは振り返る。

 仕事に合わせて午前、午後の二交代で授業。午前が仕事の場合、五時から工場で勤め、昼食を取るとすぐに送迎のバスに乗り、午後一時から授業と息つくひまもない。

 転機は昭和五十二年十二月。両社の工場が相次いで閉鎖され、翌年には生徒募集停止、五十六年に昼間定時制は廃止された。高田京子さん(42)=豊岡村、旧姓・森下=も職を失ったが、磐田市役所での仕事が見つかり、夜間定時制に編入。「みんなバラバラになった。さみしかった」。高田さんと恩田さんは口をそろえる。

 しかし、生徒と教師のきずなは強かった。故郷を離れて生活する生徒にとって、教師は親代わり。「恩田先生は(テレビドラマの)金八先生のようだった」と高田さんが振り返れば、恩田さんも「年賀状のやり取りなども、このころの生徒が一番多い」と感慨深げだ。全国に散った仲間たちは、今でも数年に一回は顔をそろえ、つらくも充実していた時代の話に花を咲かせている。

磐南を語る 2年 村松 良美さん

 私にとって磐南といえば、やはり白線一本のセーラー服。この制服を着ていると、入学式で話された「三年間かけて磐南生になりなさい」という言葉を思い出す。「磐南といえば一本線」とは、この服を着ていれば磐南生であるという意味では決してない。着ることによってまだどこか、磐南生になりきれていない自分に気付き、なろうと努力しようと思う、自分への励ましなのだ。何にせよ、卒業するとき制服に着られていない自分でありたい。

(文中敬称略)

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

中日新聞しずおかの記事はこちら

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索