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磐田南高校80周年 磐田が原の台地に

第1部 校史 軍靴の響き 戦争と重なった青春

昭和17年12月に撮影されたグライダー部。最前列の1年生は兵隊帽姿。(2列目右から4番目が柏原さん)

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 昭和十八年初夏−。

 学校中庭を歩く米倉富郎さん(76)=福岡県粕屋町、中十八回卒=の耳に、講堂からピアノの音が流れてきた。弾いていた配属将校の教官、内田清中尉は数日後に出征。一カ月後には戦死の報があった。

 「あの演奏は自身へのレクイエム(鎮魂歌)だったのでしょう。戦争の悲しさ、残酷さを思い知りました」と米倉さん。昭和二十年の終戦から数年間、米倉さんはあの時に言いたくとも言えなかった「教官、死なないで」を心の中で繰り返す。そして「なぜ内田中尉にこの言葉を言えなかったのか」と涙した。

    ◇

 昭和十六年度までの約二十年間、尾崎楠馬初代校長の下で発展の礎を築いた見付中学も、徐々に戦時色に染め上げられていく。

 同年四月に入学した柏原博一さん(73)=磐田市西坂町、中二十回卒=は八カ月後に真珠湾攻撃の報を聞く。「いよいよ始まったか。自分も頑張るぞ」と興奮したという。

 当時の生徒は日本が勝ち続けることを信じて疑わなかった。戦闘機の操縦かんを握ることを夢見ていた柏原さんは「少しでも空を飛ぶ感覚を養おう」とグライダー部に入部した。

 一年下の後輩からは、制帽も兵隊帽に変わり、学校も戦時体制下に。校内では靴下は禁止され、冬でもはだしで廊下をぞうきん掛けという、開校以来変わらぬ質実剛健の校風は、時代が求める男子教育と合致した。

 戦争は長引き、総力戦の色合いが強まるに連れ、勤労奉仕の農作業、昭和十九年の学徒動員などで授業はしばしば中断する。柏原さんは通常より一年早く昭和二十年三月に四年生で卒業。卒業式は、学校に戻ることなく動員先の名古屋近郊の工場食堂で行われた。

 戦争と青春が重なった当時の見付中生徒。「今から考えればつらいことも多かった。だが、厳しい時代だからこそ、心も体も鍛えられた」。柏原さんが一瞬、遠くを見つめた。

磐南を語る 3年 浅田 妙子さん

 この三年間はあっという間でした。勉強が大変でいやになったり、友達とうまくいかなかったりした時期も。しかし、磐南に入ったから会うことのできた友達、先生方、そして磐南生としてさまざまな道を残してくれた先輩方がいてくれたことによって、私はさらに次のステップへと進んでいくことができました。これからの道は今まで以上に大変になるけれども、「私は磐南生である」ということに自信を持って、突き進んでいきたいと思います。

(文中敬称略)

 

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