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磐田南高校80周年 磐田が原の台地に

第1部 校史 小田原山 鍛えれば“文”も栄える

労作教育の一環で山を開墾する生徒=昭和初期

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 グラウンドの北西にある数メートルほどの小高い築山。「小田原山」と呼ばれるこの山は、戦前の生徒にとって“労作(ろうさ)教育”を象徴する決して忘れることのできない存在だ。近くには「労作教育の鬼 小田原勇先生 嗚呼小田原山に偲ぶ」と刻まれた顕彰碑が立つ。

 初代の尾崎楠馬校長に請われて、当時の朝鮮から赴任してきた小田原勇教頭。着任するや作業の先頭に立ち、くわをかついで汗を流した。磐田が原の斜面を削ってのグラウンド造成。今もその地に残るプールと校舎南側の庭園。土を盛り上げて作った防風堤は、当時から吹き荒れていた“遠州のからっ風”を八十年間防いできた。作業は学校内にとどまらず、近くの山の開墾にも及んだ。

 「本日は第〇学年、作業」。生徒は放課後、廊下にあった黒板を見てがっかりしたという。「いやでしょうがなかった」と顕彰碑の字を書いた、元磐田市長の山内克巳さん(90)=磐田市草崎、中三回卒=は振り返る。「他の学校の生徒からは土方作業の“ドカ中”と呼ばれた」

 保護者からもクレーム。「上の学校に進学させるために、この学校に入れたのに」と。しかし尾崎校長、小田原教頭は「人間教育のため。体を鍛えれば、“文”も栄える」と主張した。山内さんの代の卒業生百三十人からは、東大に四人、京大に二人進学。八人の医者も生み、成果を証した。労作教育は日本の教育界でも話題となり、大勢の関係者が視察に訪れた。

 尾崎校長とともに二人三脚で草創期の磐南精神を形成した小田原教頭。「態度も立派な人だった。作業は大変だったけど、今になってえらい人だなあと思う」。小田原教頭を知るOBは口をそろえる。新入生を迎えるころには、桜が咲き乱れる小田原山。今後もこの小さな築山が、労作教育の精神を風化させずに後世へと伝えていくのだろう。

磐南を語る 3年 真田 英士さん

 今でも目に焼き付いているしゃく熱の太陽の下での思い出。全校で駆けつけた静岡球場が、応援団員として高校最後の野球応援だった。野球部員だけでなく一人一人が磐南の伝統に誇りを持ち、一体となって勝利を目指した。磐南には力いっぱいという言葉がふさわしい。一体となって何かを成し遂げたときの喜び。親友がライバルとなって燃える競争心。磐南生だれもが、楽な勝負など望んでいない。苦しみながら耐えて勝つことを胸に秘めているのである。

(文中敬称略)

 

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