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浜松市立高100周年 心に誠・愛・節

校史(8) 苦難連続、戦中・戦後の「からたち会」

最後の集まりでフジ棚の前に集うからたち会のメンバー=浜松市の中部中学校で

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 浜松市の中部中学校にあるフジ棚の前で、今年古希を迎える浜松高女、市立高校の卒業生が記念写真におさまった。戦中・戦後をともに過ごした時代の思い出を胸に。同期会「からたち会」のメンバーが歩んだ道は苦難の連続だった。

 昭和十九年春、からたち会のメンバーは浜松高女に入学した。学徒動員のため、校舎に先輩の姿はなかった。授業もそこそこに、近くの山に避難用の横穴を掘り、軍事教練では竹やりやなぎなたの練習もした。

 翌二十年六月十八日、米軍による大空襲が浜松を襲い、浜松市松城町の作左山校舎は全焼。翌日、様子を見に来た入野清子さん(70)=同市海老塚、高2回卒=は「図書館の分厚い辞書が本の形のまま灰になっていたのが印象に残っている」と話す。

 戦後、同市広沢に臨時の校舎が建てられたが、資材は数キロ離れた旧日本軍の兵舎の廃材を、生徒が自ら歩いて運んだものだった。河合八重子さん(70)=浜松市板屋町、同=は「生徒は皆、頑張り屋さんだった。つらい時代だったけど、楽しく過ごしていた」とバラック校舎での戦後の混乱の時期を振り返る。

 昭和二十四年三月、生徒の約半数が高女46回生として卒業。残りは学制改革でできた高校に進学し、翌年に高2回生として学校を去った。

 二十二年後の昭和四十七年六月、それまでクラスごとに開かれていた同窓会を統一、「からたち会」が誕生した。名前のいわれは、広沢校舎にあるナニワイバラの花を、当時はカラタチと誤って教わっていたから。からたち会は、二−三年おきに、毎回五十人ほど集まって“六月の集い”を続けてきた。

 そして今年六月十日、からたち会としては最後の集まりを開いた。卒業後五十五年以上を経ているが、集まって足が向かうのは作左山校舎の跡地だった。授業らしい授業もできなかった校舎で、空襲や終戦、戦後の混乱を乗り越えた。当時からあったフジ棚の前に立つと、鮮やかに記憶がよみがえる。

 「私たちは文字通り、生死を共にしました。その分きずなは強い」と木俣美知子さん(70)=同市子安町、高女46回卒。からたち会はメンバーが古希を迎えるのを機に活動を終了し、今後は同好会のような形で存続させる。現役一年の山下裕貴さんは「私たちも卒業して何十年も付き合えるような仲になりたい」と先輩の強いきずなにあこがれていた。

(文中敬称略)

 

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