トップ > 静岡 > 高校・大学周年特集 > 浜松市立高100周年 心に誠・愛・節 > 記事

ここから本文

浜松市立高100周年 心に誠・愛・節

校史(6) 懐かしい「軽便鉄道」通学

半世紀にわたり、当時の多くの学生たちの通学手段として活躍したラッキョウ軽便(撮影場所不明)

写真

 市立高のすぐ東、車道より低い位置にレンガ舗装の遊歩道が南北に通っている。自転車通学の現役一年生加藤彩さんは「車が通らず、安心して登下校できます」と軽やかにペダルをこぐ。多くの学生が利用するこの遊歩道は、昭和三十九年に廃線となった軽便鉄道奥山線の線路跡だ。

 歩道わきにある車輪や機関車の煙突をかたどったモニュメントが、軽便の面影を唯一残す。「煙突がラッキョウ型だったから“ラッキョウ軽便”と呼ばれたようですね。ここが線路だったとは、信じられないけど…」と一年長谷川いくみさん。

 市立高の寄宿舎「曳馬野寮」が廃止された大正十二年、引佐町奥山と浜松市板屋町を全長二五・七五キロで結ぶこの軽便が全線開通した。以来、引佐地区の生徒は、軽便で通学を始めた。

 軽便を敷いたのは、引佐の実業家・伊東要蔵氏。大正元年に浜松軽便を設立すると、交通が不便だった三方原台地、引佐、奥山地方を次々と線路でつなぎ、茶やミカンの出荷にも寄与した。

 ラッキョウ軽便は、作左山校舎で学んだ市立の生徒にとって特に懐かしい存在。「作左山の校庭わきを、自転車くらいの速度でのんびり走っていました」と青木文子さん=高女37回卒、浜松市和合町=が思い出す。

 パワーが弱く、石炭の質も悪かったため、都田の急勾(こう)配では、車輪が空回りしたり、ストップしたりすることも。「客が降りて後押しさせられたこともあったし、ダイヤもよく乱れていました」という。

 大正末期にはバスに乗客を奪われ始め、輸送力・速度増強を目的に電化が計画されたものの、やがて昭和恐慌に突入し断念。戦後は遠州鉄道に合併され、ディーゼル化を経て昭和二十六年に全線電化が完了、ラッキョウの姿が消えた。

 電化時代に細江町気賀から通学した牟田敬子さん、加藤昌代さん=いずれも高7回卒=は、「通学時間はいつも満員。いすに座った銀行員の男性に荷物を預け、立ちながらテスト勉強した」「電車は一時間一本だけなので、乗り遅れないように必死だった。バスより安いのがうれしかった」と当時を振り返る。

 廃線跡は平成四年に浜松市の亀山トンネル−浜松北高の区間(六百八十五メートル)が遊歩道に生まれ変わり、今ではウオーキングコースとしても人気が高い。

 墓参りのため、久しぶりに故郷浜松を訪れた木村美代子さん=高4回生、東京都中野区=は「美しい歩道に変わっていて驚きました」と亀山トンネルで涼みながら語った。

(文中敬称略)

 

この記事を印刷する

中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 読者の方は中日新聞プラスで豊富な記事を読めます。

中日新聞しずおかの記事はこちら

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索