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浜松市立高100周年 心に誠・愛・節

校史(4) 作左山の厳父 黒ダヌキ校長

作左山校舎の空撮写真。コの字形校舎は当時の学校建築の主流だった=現在の浜松市松城町で

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 浜松高女(浜松市立高)は大正十二年四月、浜松市松城町、作左山(さくざやま=現・中部中学校所在地)の新築校舎に移転した。作左山時代は昭和二十年六月の浜松大空襲で焼失するまでの二十三年間。この間、たった一人の校長が重責を担い続けた。「中興の祖」として今も語り継がれる第五代黒田伝次郎氏(任期・大正十一年六月−昭和二十年七月)だ。

 灰青色のペンキで塗られた作左山新校舎は木造二階建て。三千四百五十五坪の敷地に校舎がコの字形に並ぶ。馬冷校舎からの引っ越しを体験した、当時二年生村松すゑさん(92)=高女24回卒、浜松市積志町=は「机やいすなどをアリの行列のように全員で運び込んだ」と思い出す。

 作左山に至るまでに日本は、日露戦争、第一次世界大戦を経て、未曽有(みぞう)の高度成長を果たしていた。市民が裕福になり、子女の教育にとりわけ熱心になった。浜松高女も大正時代後期には倍以上の志願者が殺到。尋常小学校の成績トップクラスが入学試験に臨み、入学できたのは半分以下。生徒は「いちりつ」の誇りを胸に抱いた。

 黒田校長は、自らの教育方針に信念を持ち、強烈なリーダーシップで教師さえも遠慮なくしかりとばした。ある職員会議では「スポーツを盛んにするため、全職員を運動部の顧問に割り当てる」と言い渡し、職員らがうつむいていると「反対する者は職を辞して他に転ずべし」と発言して震えあがらせたことも。

 特に力を入れたのは国語教育。格言・漢詩・和歌などを題材に、毎朝全校生徒の前で訓話し、帳面に書かせた「一日一訓」は、特色ある教育として多くの卒業生の心に刻まれている。

 当時の帳面を今なお大切に保管する河村ひさゑさん=高女33回卒、浜北市新原=は「正しい言葉づかいを丁寧に教えていただいた。人情味豊かな先生で、厳しい半面、多くの生徒や教員に慕われた」と話す。

 二人の愛娘を若くして亡くした黒田校長は、総計四千人余の教え子が自分の娘のように思えたのかもしれない。その愛情を知ってか知らずか、当時の生徒がつけたあだ名は「作左山の黒ダヌキ」。

 現役二年生の長谷康代さんは「私たちも好きな先生には、こっそりとあだ名を付けています。何て呼んでいるかは、卒業するまで教えられませんけど…」と肩をすくめて笑った。 

(文中敬称略)

 

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