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浜松市立高100周年 心に誠・愛・節

校史(2) 新築の馬冷校舎で礎築く

松城馬冷時代の浜松高等女学校校舎=現在の浜松市松城町で

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 慌ただしい開校から三年たった明治三十七年七月、浜松高等女学校は浜松幼稚園跡の仮校舎から松城馬冷(うまひやし)に新築された校舎に移転した。

 馬冷は、浜松城の水濠(ぼり)で武士が馬を冷やしたことが名前の由来とされる。現在の浜松市松城町、浜松開誠館の東側一帯。初代矢勝安定校長が同年二月に退職。九月になって二代目校長に就任した田辺友三郎氏が、どっしりと腰を据えて同校の礎(いしずえ)を築いた。

 現役三年生の村上侑希さんは、「“桃太郎校長”と呼ばれた先生ですね。以前何かの資料で知りました」と語る。

 明治三十三年、当時静岡師範付属小学校主事だった田辺氏は、幼年唱歌「ももたろう」を作詞した。 

”桃から生まれた桃太郎 気は優しくて力持ち 鬼ケ島をば うたんとて勇んで家を出かけたり…”という曲。もう一つの文部省唱歌「ももたろう」(”ももたろうさん ももたろうさん…”)と並び、よく歌われた。

 田辺校長は、金沢市生まれ。東京高等師範学校在学中から同校教官だった田村虎蔵、学習院教官の納所弁次郎ら音楽家の勧めで、文学者の大和田建樹、佐佐木信綱、巌谷小波らとともに多くの唱歌を創作した。

 当時、国内で「言文一致運動」が起きていた。田辺校長らの創作唱歌も、こうした運動の一環だった。文語体の歌詞でなければ気品を失うという通念を打破し、子どもに合った唱歌を与えるべきだとの主張を貫いた。

 四十歳で浜松高女の校長になった田辺校長は就任早々、校訓「誠・愛・節」を制定。「穏やかな性格で頭ごなしに怒る先生ではなかった」「字がきれいな先生で黒板の字を消すのが惜しかった」と当時の教え子らの感想が伝えられている。現役三年生の小河智佳子さんは「(校訓は)簡単な字ばかりなのに奥が深い。私たちの心にもズシリと響く」と語る。

 大正六年四月まで十二年余にわたり在任した田辺校長はその後、掛川実科高女の校長も務め、大正十四年に三ケ日町に。共立三ケ日実科高女と自彊学校(両校とも三ケ日高校の前身)で教えた後、浜名湖畔の家で老後を過ごし昭和八年に七十歳で没。

 墓は浜松市立高校の南、浜松市広沢二丁目の西来院にある。徳川家康の正室、築山御前の墓の近くだ。現役二年生の白鳥悠さんは「一度、お墓参りに行って百周年の報告をしたい」と話した。

(文中敬称略)

 

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