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浜商野球 栄光の80年史

血気盛んなOB監督就任 昭和26年(上)

当時を振り返る根木康治さん

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 甲子園出場を果たした翌年の1951(昭和26)年4月。浜商野球部は大きな転換期を迎える。

 野球部の指導はそれまで部長兼任監督だった岡崎敏雄や前年、甲子園に導いたOB監督、松本平四郎(昭17卒、故人)らが交代で行っていた。しかし岡崎が体調を崩し、松本も旅館経営の仕事が忙しくなり、専任監督起用の機運が高まった。

 白羽の矢が立ったのがOB根木康治(昭18卒)=浜松市中山町。現役時代は4番、遊撃手でリリーフ投手も務め、野球部のリーダーだった。

 浜商卒業後、日体大に進み50(同25)年に県職員試験に合格。この年、教師として母校に赴任した。日体大時代も帰省すればグラウンドを訪れ指導するなど、部員の信頼は厚かった。

 根木の代名詞が千本ノック。そのノックは「倒れるまでやる」といわれた徹底ぶりとともに、球脚の速さと厳しいコースで部員を震え上がらせた。「教師になって母校に戻り大好きな野球を指導するんだから、張り切らないわけがない。若いから守備も打撃も自分でやってみせて教え込む。部員は気が抜けずピリピリしていた」。根木と8歳違いの弟で、前年の甲子園に出場した健治(昭27卒)=同市元目町=は当時を語る。

 練習に試合と同じ緊張感を求める根木は、班別打撃練習も考えた。5人が班をつくり全員がいい当たりの間は打てるが、1人でも当たりが悪いと別の班にすぐ交代させた。

 「野球部を強くすることだけを考え、夜布団に入っても次の日の練習内容を考え眠れなかった。浜商の野球は守備を固めて点を与えない、相手にすきを与えない野球。部員に緊張感を持って練習させる方法ばかり考えていた」と根木。浜商野球部は血気盛んなOB監督の下で成長していく。

文中敬称略

 

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