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浜松西高80周年 西山台に時移り

校史編 戦時下 勤労動員で生徒の死

1941年8月、夏季宿営演習の行軍。戦闘訓練などが行われた=細江町気賀の落合橋で(「浜松西高50年のあゆみ」から)

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 一九三一(昭和六)年の満州事変に始まり、日中戦争、そして太平洋戦争−。戦時色が強まる中で、三八年には国家総動員法が制定された。生徒も食糧増産のため農作業に励んだり、勤労動員で軍需工場に駆り出されたりした。浜松二中にも時代の荒波が迫っていた。

 植松勲(昭19卒)=浜松市北寺島町=の在学中、軍事教練は過酷さを増し、暗渠(あんきょ)排水掘りなどの作業が授業に組み込まれた。「さんぱちじゅう」(三八式歩兵銃)を担いでの行軍や、野外教練も頻繁だった。だが、空襲はなく、教科書は足りないが授業は行われた。「まだ日本は勝っていたから。ぎりぎりいい時代だった」と振り返る。

 しかし、三年後に入学した服部周平(昭22卒)=同市神立町=のころには、戦局は悪化。「まともに勉強できたのは最初の一年間ぐらい」。そして、動員先の軍需工場で同級生に惨劇が見舞った。

 四五年四月三十日の午前中。浜松市楊子町の石川鉄工が空襲を受け、二中の四年生七人が死亡した。二交代制で、服部も数時間後には午後の勤務に就くはずだった。数時間の差で九死に一生を得た。がれきの中から掘り出した遺体の中には、午後に服部が担当するはずの機械を使っていた友の姿もあった。

 浜松駅南の本社にいた左右田丈夫(昭21卒)=同市東伊場=も救出作業に当たった一人。「朝、途中まで一緒に通勤した友達も亡くなった。旋盤のハンドルを持ち、腹をえぐられて立ったまま死んでいる人もいた。名札を見てやっと誰か分かった」。寺の住職の左右田は、三十三回忌まで七人の法要を続けた。

 十五、六歳で散った彼らより「もう六十年も長生きしてしまった」。服部も無念の思いが消えない。記憶を風化させまいと、七人の殉難者を含む石川鉄工への動員者名簿をまとめた。

 勤労動員で唯一、二中生の死者を出した楊子町の鉄工場も、今はない。

 祖父母からも戦争の話を聞いたことがないという現役二年生、松本将太は「高校時代は人生の中でも短くて楽しみがある時期。戦争は国の都合なのに…」と話す。同じ二年の大石彩乃は「今の西高があるのは、先輩が二中の生徒として仕事をしてくれたおかげなんですね」と、激動の時代を生きた先輩たちに思いをはせた。

 敗戦で動員解除され、二中生は九月ごろから学校に復帰。混乱と食糧難の中、戦後の復興が始まった。

(文中敬称略)

 

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