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浜松西高80周年 西山台に時移り

校史編 開校 目標は英イートン校

開校の翌年、西山台に完成した新校舎。中央の道が現在の東坂

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 近代産業の発展につれて学問も大きく花開いた大正時代。全国的に教育熱が高まる中、小学校卒業者を受け入れる中学校(旧制)の不足が深刻な問題になっていた。

 一九一二(大正元)年当時、県西部の中学は浜松(現浜松北高)と掛川(現掛川西高)の二校だけ。県内でもわずか七校で、全国各地に中学や女学校、実業学校が相次いで誕生する中で二中も開校した。

 それでも、まだまだ中等教育は“狭き門”。初年度の二中の入試は競争率三倍以上だった。二期生の中村誠一(昭5卒)=静岡市春日=は雄踏小時代、進学希望者を対象にした特別授業を受けた。「学習内容が多く、夏休み中も午前中は授業。大変だった」と振り返り、「入学できた時はとてもうれしかった」と語る。

 一期生の大平伊太郎(昭4卒)=天竜市熊=の妻秀子は「当時、熊から二中に進んだのは夫一人のようです。浜松市の広沢に土地を買って一家で引っ越したと聞きました」。息子の中学進学は家の一大事だったようだ。

 初年度は新入生百人、教師・職員五人でのスタート。建設地の選定に手間取ったため、校舎建設が開校に間に合わず、西山台に引っ越すまでの約十カ月間、名残町(現・布橋)の浜松師範学校に間借りした。

 初代校長には英語学者でもあった枩田与惣之助(故人)が着任。枩田は自立自治、自修、個性の尊重を教育方針に据え、英国の名門パブリックスクール、イートン校を目標に掲げた。目指したのは「若き紳士」の育成。その理念は「ヤング・ジェントルマンたれ」として、校訓知・仁・勇」とともに今も西高に受け継がれている。

 今年の夏、語学研修に参加してイートン校を見学した二年生の土屋淳子は「全寮制で男子校だから、今の西高とは印象が違った」という。同じ二年の安田健吾は開校時からの校訓について「実感がわかなくても、僕たちの礎」と感じている。

 テニス好きというハイカラな面も持っていた枩田だが、生徒には厳格で教育熱心、礼節を重んじた。「先生には脱帽してあいさつ。洋服にげた履きはだめ。和服ははかまを付けるようにと、マナーに厳しかった」と中村は述懐する。

 引っ越しは済んだものの、校庭や学校施設が整わない二中では「作業」が日課。生徒らは雑木林を切り開いた校庭にごろごろ転がる石を拾ったり、テニスコートの整備にモッコを担いだり。周囲からはその汗まみれ、泥まみれをやゆされたが、枩田は作業も教育の一環と位置づけていたのだろう。ある時、代議士の妻が学校に乗り込み「土木作業をさせるために息子を入れたのではない」と抗議。枩田は「それなら別の学校に行かせなさい」と一蹴(いっしゅう)したとの逸話も残っている。

(文中敬称略)

 

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