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浜松西高80周年 西山台に時移り

先輩後輩 仁

忘れられぬ校舎火災

昭和31年卒 NPO救急ヘリ病院ネットワーク 理事長・元警察庁長官 国松 孝次さん(67)

「人生をのんびり考えさせてくれた」と母校の思い出を語る国松孝次さん=東京都で

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 「ものすごい炎だった。半鐘が打ち鳴らされて真夜中に跳び起き、学校に走った。校舎は全焼。大変な喪失感を感じた」

 一九五四(昭和二十九)年七月、二年生の時に起きた校舎焼失事件。良くも悪くも、高校での一番の思い出になった。生徒総出のがれき撤去作業に二、三カ月を費やした。かろうじて燃え残った旧講堂をベニヤ板で間仕切りし、急ごしらえの“教室”での授業。新校舎建設まで一年余り続いた。

 「勉強が遅れることへの危機感はなかった。のんびりとした校風でね」。「授業中に“内職”していて先生にえらい怒られたり、弁当を食べたり。皆やっていたよ」。高校卒業は五六年。経済白書の「もはや戦後ではない」が流行した年だ。高度成長に伴う進学熱の高まりが激烈な受験戦争を生み出す直前。まだ、のどかな高校生活だった。

 警察庁長官だった九五年三月、自宅前で狙撃され、ひん死の重傷を負った。一連のオウム真理教事件捜査のさなか。“恩人”と仰ぐその時の執刀医の依頼で、NPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」とかかわりを持つことに。理事長に就任。救急医療にヘリコプターを導入するためのシステム構築を目指している。

 「この仕事がライフワークになった」。身を乗り出して語る様子からも、熱意が伝わってくる。救命率アップのため、ネットワークを全国に張り巡らすのが夢だ。

 「西高では、枠にはめられた覚えは一切ない」。大きな懐の中で青雲の志が芽生え、そして人生の基礎が築かれた。 

生物部のめり込む

昭和43年卒 障害者授産所 ウイズ施設長 斯波 千秋さん(54)

「高校時代の仲間とは今も助け合う」と話す斯波千秋さん=浜松市半田町で

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 「『ウイズ』というのはね、“一緒に”を意味する英語の『with』からとったんだよ」。白杖作りの作業が一段落すると、肌着姿で現れた斯波さんは、そう教えてくれた。

 家にこもりがちな視覚障害者のために、一九九六(平成八)年、全国初の視覚障害者中心の小規模授産所ウイズを浜松市半田町に開設した。「中途失明者は99%が自殺を考える。とにかく外に出なきゃ」。障害者が力を合わせ、障害者のために働くことに意味があるのだと話す。

 通所者は十八−七十七歳の十七人。視覚障害者のための折り畳み式白杖作りや点字付き名刺、広報はままつの点字版製作などを請け負っている。中でも白杖は年間約三千本を供給し、国内生産量の約七割を占める。

 高校では“黄金時代”まっただ中の生物部部長を務めた。著名な生物研究者でもあった顧問、田中亮三教諭(故人)に率いられ、さまざまな賞をもらった。「高校生活は生物部オンリー。のめり込むタイプだから」。部員は週末は山で昆虫採集、夏休みは天竜川の生態調査に明け暮れた。テスト期間中に山に入り、教科書を置き忘れた強者もいた。

 「勉強は二の次。ガリ勉はクラスに一人程度で、ほとんどがクラブ活動や遊びに熱中していた」

 ヘレンケラー・サリバン賞を受賞。〇三年にはスリランカに支所を開設した。「“福祉”の対象は人間だけだけど、環境など、取り巻くもののおかげで人間が存在できる。高校生物部での勉強が今、生きている」と力を込めた。

(文中敬称略)

 

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