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浜松西高80周年 西山台に時移り

先輩後輩 知

自分に大切な言葉を

昭和20年卒 国立国語研名誉所員 村石 昭三さん(76)

「戦時中も自由をおう歌できた」と二中時代を振り返る村石昭三さん=東京都内で

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 終戦の年に浜松西高の前身、浜松第二中学を卒業。在学中は勤労動員や軍事教練にかり出され、勉強どころでなかった。

 進学先の広島高等師範学校は原爆で壊滅。授業再開までの半年間、雄踏町の実家でレンコン栽培を手伝いながら、日本文学全集などを読みあさった。

 二中時代、浜松出身者との言葉の違いに気付いた。校舎が建つ西山台まで、市中心部から東坂を上ってやって来る“都会組”と、雄踏、舞阪方面から西坂を上って来る“田舎組”。都会組は「やあ」と呼びかけるのに対し、田舎組は「おめえ(お前)」。「田舎者で気が弱かったから、自分の言葉をのみ込んだ」。言葉に敏感になった。

 広島高師を卒業後、東京文理大(現筑波大)、同大学院で国語学と心理学を学び、国立国語研究所に入所。幼児の言語能力の全国調査などを行い、乳幼児が言葉を獲得していくプロセスを研究した。同研究所言語教育研究部長を経て埼玉大、東京家政大教授を歴任。研究書や監修した辞典も多く、幼児言語研究の大家として知られる。

 人間は皆“言語記憶装置”を持って生まれ、幼児のカタコトにも、その子独自の言語が表れるという。日本語の乱れが指摘される昨今だが「言葉は変わっていくのが自然」。ただ「好きな言葉、格言、先人訓など、人生の中で大切な言葉を持っていて」と助言する。

 二中卒業後も、広島高師の校舎再建に寄付を訴える演説をしたり、アルバイトで教べんを執ったりと、母校との縁は続いた。西坂を共に通った“悪友”たちとは、今も年に一度旧交を温めている。

問題から逃げるな

昭和54年卒 名城大教授 天野 浩さん(44)

「問題に立ち向かう西高生であってほしい」と話す天野浩さん=名古屋市の名城大で

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 「世紀の発明」と称賛される青色発光ダイオード(LED)開発者の一人。電流を光に変換する半導体の赤色、緑色LEDは早くから製品化されたが、光の三原色の残る一つ、青色LEDの開発は困難を極めていた。

 名古屋大工学部電子工学科四年生の時、青色LED研究の先駆者、赤崎勇教授(現名誉教授)の研究室に入った。各国が資金と頭脳を投入して開発に取り組んでも、実現できずにいた青色LED。「皆ができないなら、自分がやってやろう」。所属する研究グループが基礎技術の確立に成功したのは、一九八九(平成元)年のこと。赤崎名誉教授らとともに英国ランク賞、武田賞を受賞する快挙となった。

 日亜化学工業の中村修二さん(現カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)が実用化にこぎつけたのは、その四年後。今では、携帯電話の画面や信号機などに幅広く応用されている。

 浜松西高の「躍進期第一期」(七〇−八四年)に在籍した。学校施設の整備や運動部の活躍。目を見張る進学率の伸び。共通一次試験の一期生として、激変した受験方法に戸惑った。

 「自分で考え、判断する力がつき始めた時期」。高校時代をそう振り返る。生徒の個性を尊重し、自主性を重んじる母校の校風が自立心をはぐくんだ。数学の成績は常にトップクラス。クラスの皆が宿題を教わろうと集まってきた。難問を解くのがおもしろくて、問題集を多用した伊藤保教諭(七三−八四年在職)の授業が印象深いと話す。

 「社会に出ると世界と戦うことになる。自分の頭で考え、今、どんなことでもいいから一生懸命取り組んで。問題から逃げない、それが西高スピリットであってほしい」。後輩への熱いメッセージだ。

(文中敬称略)

 

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