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袋井商業高校80周年 飛翔

歴史編 戦前、戦中 『商業教育』の受難

国策で工業校に転換へ

戦時中、原野谷川河川敷に設けられた増産協力報国農場で働く生徒ら

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 商業学校として歩み始めた開校十年目の一九三三(昭和八)年、新たな校訓が定められた。「商士道ニ生キヨ」。商業人を志し同校の門をたたいた当時の生徒を奮い立たせ、未来を見据えた真っすぐな言葉だ。

 しかし、学校は受難の時期を迎えていた。金融恐慌、経済不況の波が押し寄せ、学校財政も困難を極めた。それにも増し、戦争の足音が教育の場にも忍び寄っていた。

 満州事変(三一年)を契機に国内は軍事一色に染まり、四一年には太平洋戦争に突入した。校内には報国隊が結成され、生徒たちは軍服色の制服にゲートルを巻き、軍事教練に明け暮れていた。「授業どころでなかったが、それが当たり前とも思っていた」と石田昭二さん(76)=昭和二十年卒、袋井市広岡=はしみじみと振り返る。

 戦争突入と同時に、国の統制経済が強化され「商業教育無用論」が沸き起こった。「従来の模擬商業教育の実践は、自由経済主義を前提とする」という理由から、商業教育を否定。戦局が悪化した四三年には、戦時国策「教育に関する戦時非常措置令」が発令され、商業人を育成すべく歩んできた学校は、工業校に転換された。「国策とは言え、あまりにも唐突だった」。商業を学ぶために入学した松本長平さん(72)=昭和二十四年卒、同市大門=は、当時の世情を悔やむ。

 工業校と言っても名ばかりだった。本格的な工業授業を行う設備はほとんどなく、授業は配属将校や老教師が担当。上級生は名古屋近郊の軍事工場に動員され、残った下級生のほとんどが勤労奉仕作業に従事した。第十八、十九回の卒業式は、生徒動員先の工場で行われた。式に出席した青島重徳さん(75)=昭和二十年卒、磐田市中町=は「卒業式の晴れやかさも祝福してくれる家族も友もなく、将来の希望も全くなかった」と、同校の記念文集に寄せている。

 「戦時中は成り行き任せで生きてきた。後輩たちには人との出会いを大切にし、明るい未来を切り開いてほしい」と松本さん。終戦を迎えた四五年四月、わずか二年間の工業校時代も終わり、商業学校として再出発した。

 最後に、文頭の「商士道ニ生キヨ」に併記された校訓を紹介する。「真ノ日本人タレ」「人類ノ福祉ヲ図レ」。現在の若者たちにも伝えるべき、先見性の高い教えだ。

何事も一生懸命に取り組む 女子テニス部長 3年 中山 千晶さん 

 入学時からテニス部に所属し、今年は部長を務めました。部長としての責任の重さを実感し、精神的強さ、忍耐力などを学ぶことができました。部活を頑張ろうと思うと自然に勉強にも力が入り、授業も大切に受けるようになりました。何事にも一生懸命に取り組むことができるようになったのは、部活で厳しく指導してくださった先生方のおかげです。

(文中敬称略)

 

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