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ふくい経済 シゴト咲く

町で愛される酒を 兵助(ひょうすけ)

自社ブランドの純米酒・妙正宗を抱く村松弘康社長=おおい町本郷の兵助本店で

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村松 弘康(むらまつ・ひろみち)社長 45歳

奈良の兄と二人三脚

 明治時代から続く酒屋の五代目。地方の酒屋として生き残りを期し、約十年前からネット販売に参入する。その一方で、おおい町で愛される酒屋にこだわり、戦後に手放したオリジナルの味を模索。酒造権の再取得はかなわなかったが、奈良県の酒蔵に婿入りした兄・喜多整(ひとし)さん(47)と二人三脚で、町で愛される清酒を奈良という新天地で生み出した。

 幼い頃、遊び場にしていた倉庫には、米を炊く「釜場」の跡や、袋に入れたもろみを搾る「木槽(きぶね)」など、かつての酒造場の面影が残っていた。その中には、自社ブランド「妙正宗(みょうまさむね)」のラベルも。「お酒の味を覚える前から、おぼろげにブランド再興を意識した」と振り返る。

 進学先は、酒造りの勉強に進んだ整さんに対して、小売り業を意識し経営学科に。しかし、実業に結び付くイメージがわかず、休学しオーストラリア大陸横断へ。乾燥した荒野を自転車で走り、一日誰とも会わない日も多かった。「自分探しに出たのに人恋しくてペダルをこいだ」と、すっかり人懐っこい性格になったと笑う。帰国後、復学したが父・兵助さんが病に倒れ、中退し家業を継いだ。

 当時はディスカウントストアなどでの酒の販売が拡大したころ。県内の黒龍(黒龍酒造)、早瀬浦(三宅彦右衛門酒造)などの蔵元と直接取引を始め、品ぞろえを強化していった。一方で、地元ならではの地酒をなつかしむ声に、なんとかできないか、という思いも強くなった。

 地ビールブームやどぶろく特区など、規制緩和された印象の強い酒造業だが、清酒の製造は新規・再参入の審査が厳しく、酒造設備に億単位の投資をするには不透明な状況だった。

 転機は兄・整さんが、奈良県橿原市の喜多酒造に婿入りしたこと。整さんは蔵元杜氏(とうじ)として酒造りを取り仕切るようになり、おおい町の味を奈良県で模索することになった。しかし、仕込む水は違う。その上、飲んだ人の記憶も薄れ、甘口だったのか辛口だったのかもはっきりしない。そんな中でも二人で決めたのは「普段飲み」のコンセプトと、おおい町産の米を使うこと。酒米でなく飯米のイクヒカリを原料とした。

 「プライベートブランドは普通、付加価値をどんどん付けていくのだろうけど」と謙遜するが、販売から十六年たち、再び地域に根付いた味に。「純米酒だけでなく吟醸酒、生酒とバリエーションを出したい」と今後の目標を語る。 (山谷柾裕)

 村松 弘康社長

 県内の高校を卒業後、北海道の大学へ進学。経営学を学びつつ、海外を放浪するなどしたが、父・兵助さんの体調不良を期に大学を中退し、25歳で故郷に戻り父の店を引き継いだ。兄・整さんと協力し、おおい町で親しまれる日本酒を提供している。1971(昭和46)年12月8日生まれ。

 兵助(おおい町)

 明治時代に創業。1916(大正5)年に酒造権を取得し「妙正宗」の商標を得て日本酒を製造するが、戦中戦後の企業統合策により1953(昭和28)年、小浜市の浜小町酒造(現在は廃業)に参加。町での酒造業を諦め、酒類販売業として事業を継続する。1984(昭和59)年に法人化し有限会社村松酒店を設立。2006年にかつての屋号「兵助」を復活させ、兵助株式会社となる。資本金800万円。従業員は社長含め4人。

 

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