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福井発

心に刻んだ博愛精神

杉原千畝の写真を見ながら、ハヌカの夜の思い出を語るサリー・ガノアさん=イスラエル・ラマトハシャロンで(奥田哲平撮影)

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 七十八年前の出会いは色あせていない。「グレーのスーツに、英国スタイルのような帽子。私を見て、すぐに笑顔を見せた。とても印象的だった」。イスラエル中部のラマトハシャロンで暮らす八十九歳のサリー・ガノアは、多くのユダヤ人の命を救うことになる日本人の記憶をたぐった。

 日本の切手とクッキーがほしい。東欧リトアニア中部のカウナスに住んでいたガノアは、そんな思いから杉原千畝がいる日本領事館を訪ねるようになった。一九三九年十二月、親戚が営む雑貨屋で、声を掛けたのが知り合うきっかけだった。杉原との会話の中で、ユダヤ教の祭り「ハヌカ」に話題が及んだ。杉原は「私がハヌカの間だけ、おじさんになりましょう」と銀貨をプレゼントしてくれた。お礼に、自宅でのハヌカのパーティーに誘った。

 当時のリトアニアには、隣国ポーランドに侵攻したナチス・ドイツの迫害から逃れ、多くのユダヤ人難民が集まっていた。当日、本当に杉原はやって来た。異教の国の外交官の姿に家族は驚く。三十人ほどがろうそくを囲み食事を終えるころ、一人の難民が身を乗り出した。「欧州から逃げ出せるなら、どこでもいい。日本のビザを出してくださいませんか」。杉原が難民からビザを求められた、恐らく最初の瞬間だった。

 杉原の顔に驚きが浮かび、黙ったまま考え込んだ。ガノアの父が「お客さんに頼み事をして困らせるなんて」と恐縮していた。

 およそ半年後の初夏、ガノアは杉原から父を呼ぶよう声を掛けられる。父に杉原は「今の状況を見ると、早く(リトアニアを)出た方がいい」と手書きの通過ビザを渡した。

 日本はドイツと同盟関係にあった。後に判明した記録では、杉原は本国に何度もビザの発給許可を願い出て、断られていた。それでも政府の意向に逆らい、カウナスの駅をたつ直前まで、ビザを出し続けた。

 ガノアは、杉原の「猟師がけがをした鳥を見つけたら、手当てをする」という言葉を覚えている。追い詰められ助けを求める者を前にすれば、立場を超えても救いの手を伸ばすという精神をみる。「ユダヤ人が困っていたから、助けてくれた。自分の利益を考えずに、人の命を助ける。(その意義を)若い世代に知ってほしい」と強く願っている。

 カウナスの旧日本領事館は杉原記念館となった。今夏、八百津町の中学生二十人が訪れた。ビザを求め、門の前に押し寄せたユダヤ人難民の姿。生徒たちは写真で何度も見た光景を目の前の景色に重ねた。「難民たちの気持ちをリアルに感じる」。纐纈(こうけつ)浩貴(14)は上気した顔でうなずいた。

 杉原が行動で示した人道、博愛精神が「世界の記憶」への登録申請を機に、次代を担う若者の心に刻まれている。 =敬称略

 第二次世界大戦中、日本通過を許す「命のビザ」を発給して約六千人のユダヤ人難民を救った外交官、杉原千畝(ちうね)。その資料を、杉原とゆかりが深い岐阜県八百津町が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録申請しており、十月にも可否が決まる。世界は今、難民問題や排外主義の台頭に悩む。この時代に、杉原の記録が再評価される意義を考える。

 杉原千畝 1900〜86年。岐阜県出身。出生地は八百津町と美濃市の2説がある。中津川市の中津尋常高等小(現・南小)、名古屋市の古渡尋常小(現・平和小)、旧制愛知県立第五中(現・瑞陵高)などを経て、早大中退後、外務省に入省した。第2次世界大戦中、駐リトアニア領事代理として、日本通過ビザをユダヤ人難民約6000人に発給しナチス・ドイツの迫害から救った。

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