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さまよう日章旗

<さまよう日章旗>(8) 非戦の願い込め帰郷

自宅の仏間で母の思い出を語り合う中田宏志さん(右)と片井統子さん=静岡市葵区で

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 あの日章旗の持ち主、二十二歳で南太平洋・コロンバンガラ島で戦死した「中田一郎」。ともに静岡市に住む片井統(もと)子(70)と中田宏志(62)は一郎のめい、おいに当たる姉弟だ。

 本紙取材班の記者、奥田哲平(35)が宏志の自宅で、二人に報(しら)せた。

 米国にあった日章旗が中田一郎さんのものと分かりました−。

 片井も宏志も一郎の戦死後に生まれており、叔父の顔を見たことすらない。戸惑うのも無理はない。

 片井は「母が生きていれば喜ぶでしょうけど」と、ぽつり。遠縁の親類宅で眠っていた一郎の写真を見せると「面長なところが母と似てるかな」と宏志。見比べた視線の先で二人の母、ちゑの遺影がほほ笑んでいた。

 二人によると、一郎は幼少のころ、中田家の本家の跡取りとして養子に出た。血のつながる実姉が、二人の母で十四年前に八十二歳で亡くなった、ちゑだ。戦時中、静岡県警や国の役所で電話交換手として働き、寄せ書きに名のある元県警刑事部長の奥之山茂夫とも知り合いだった。

 あの日章旗には一郎の名に寄り添うように「姉」の一文字がある。記された名に職場や住所などの共通点が見いだせなかった寄せ書きは職業婦人で顔の広い姉が弟のため、走り回って集めたのだろう。

 ちゑは一郎を戦地へ見送った後に結婚したが、すぐに夫も出征する。弟も夫も帰ってこなかった。

 一郎の死で、跡取りを失った中田家の本家は途絶えることになる。戦後十年はすぎたころだったか。片井は本家に一郎の養母当(と)よを訪ねたときのことを思い出す。仏前にたばこの入った茶色の包み紙。一郎が戦地から送ってきたものだという。「これは形見。一郎のにおいがするから開けないの…」

 片井は思う。「もし戦争がなければ、幸せになった人がたくさんいたはず…」。確かに、一郎は立派な祝言を挙げ、当よは孫をその手に抱いていたかもしれない。ちゑは夫を亡くさず、片井が寂しさを感じることも無かっただろう。片井は一郎の旗があらためて教えてくれた気がする。「戦争はぜったいに許せない」

 中田一郎という名に覚えがなく、日章旗に寄せ書きしたのは同姓同名の別人と分かった松永安太郎(87)はそれでも「良かった」とまた、泣いた。「思い出したくもない時代だが、そんな時代を私たちは生きてきた。記憶をつなげていくことが生き残った者の責任じゃないか」。松永は戦争体験の語り部を続けている。

 本紙と並行して旗の持ち主を捜していた横浜市の新井勲(79)は、また別の日章旗のことを調べ始めた。「遺品を返しながら、あの戦争の悲惨さを振り返ろう。そうして非戦の思いを引き継いでいくやり方もある」

 静岡からコロンバンガラ島、そして米国へ−。出征の日から数えて七十三年、一万九千キロをさまよった日章旗は間もなく故郷に帰ってくる。

(文中敬称略)

 =終わり

 (この連載は奥田哲平、木原育子、吉枝道生、酒井和人、浅井俊典、高橋淳、写真は内山田正夫、隈崎稔樹、小沢徹が担当しました)

 

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