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さまよう日章旗

<さまよう日章旗>(5) 若き命南の島に散る

一郎が戦死したコロンバンガラ島=「戦友のあゆみ」(歩兵第二三〇連隊戦友会発行)から。1971年ごろ撮影

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 一九四三(昭和十八)年七月、南太平洋に浮かぶソロモン諸島のニュージョージア島。反転攻勢を強める米軍が、島の守りに就く日本陸軍歩兵第二三〇連隊を追い立てていた。

 静岡、岐阜県出身者で構成された連隊はその半年前、補給が絶たれ、大勢が飢えて死んだ餓島、ガダルカナル島の撤退作戦に参加したばかり。「やっと戦場から戻れたのに、こんどはニュージョージアへ行けという。三八式歩兵銃と大和魂だけでは勝てない。もう命はないと思った」。連隊の生き残りで、静岡市で暮らす池田信二(93)は、本紙取材班の記者、奥田哲平(35)に静かに語った。

 「一郎君」という日本兵が出征する際、家族や親しい人たちが寄せ書きして贈ったあの日章旗。所属する中隊が違い、池田は覚えていなかったが、持ち主と判明した「中田一郎」も二三〇連隊の一員として、この戦場にいたとみられる。

 爆撃機からの爆弾投下や、戦艦からの艦砲射撃が絶え間なく浴びせられる。戦闘機の機銃に狙われながら、草深い島を逃げまどう。悲鳴が上がっても、だれがやられたか、振り返る余裕すらない−。戦史資料や元兵士の証言によると、そんな戦いだった。

 ある元兵士は一郎がいた第七中隊が守る陣地の様子をこう手記に残している。「八月一日、晴(中略)第七中隊は多くの犠牲者を出して、数日前の元気な面影はなかった」。結局、この陣地では三分の二以上が戦死したという。

 出征の日、バンザイでの見送りを拒否した一郎。まだ二十歳で、祝言を挙げたばかりだったという一郎。「本当は戦争になんて行きたくなかったんだろう」。あこがれの人だった一郎のため、日章旗に名を書いた山口浩一(83)は今ならそう思える。が、望もうが、望むまいが、国は若者たちを“地獄”へ送り込んだ。

 一郎はニュージョージア島の戦いを生き抜いた後、静岡市の戦没者名簿によると八月二十日、同じソロモン諸島だが、大きな戦闘の記録が残っていないコロンバンガラ島で戦死した。

 一郎と同じ第七中隊の一員が静岡県藤枝市に今も健在だった。その増田総平(93)は士官として後方にいたため、やはり一郎のことは「顔は分かるぐらい」。最期の様子も知らない。ただ…。「米軍が来るから遺体なんて持っていけない。みんな島で腐って骨になるんだ。ウジがわいて、肉が食われて、骨になるんだ」

 あの日章旗もまた持ち主とともに島に置き去りにされたのだろう。戦後、それを持っていたのは米国の元兵士だった。既に亡くなっているが、バージニア州に娘が住んでいた。

 =続く(敬称略)

 

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