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さまよう日章旗

<さまよう日章旗>(4) 間違いなく自らの字

杉山幸弘さんが保管していた「一郎」の写真

写真

 ゆっくりと、何度も白髪頭が上下する。「覚えてます。僕が生涯で唯一、寄せ書きした日章旗ですから」。山口浩一(83)は静岡市内の自宅で、本紙取材班の記者、木原育子(34)の問いにはっきりと答えた。「一郎君」という日本兵の日章旗にある、その名は間違いなく自ら記したものだという。

 「中田一郎」。やはりそうだった。戦時中、山口が住んでいた借家の大家の長男で、「優しくて、あこがれ」の“お兄ちゃん”が旗の持ち主だった。

 出征したのは一九四二(昭和十七)年。一郎は二十歳だったとみられる。郵便局員で、山口の父の部下でもあった。

 旗への寄せ書きは両親が頼まれ、山口も名を連ねた。「上手に書かなきゃ」と一画一画、息を殺しながらペン先に力を込めた。

 山口によると、一郎は出征が決まって間もなく、近所の女性と祝言を挙げている。ごちそうを期待して会場へ出掛けたが、戦時の宴(うたげ)に供されたのは、わずかばかりの茶や、酒だけ。がっかりしつつも、花嫁の和装姿が「きれい」で、ずっと見とれていたことを思い出す。

 出征の日のことを詳しく覚えているのは、一郎の態度が奇妙だったからだ。当時の常識では、めでたい門出の日。見送りの人たちが万歳しようとしたのに、一郎は「いりません」と止めたのだという。

 戸惑う人々に「じゃあ」と背を向け、しばらく歩いて振り向くと、帽子を取って左右に振った。たぶん、笑っていたと思う。山口にとって、それが一郎を見た最後だった。

 山口の情報から、一郎の縁者が次々と見つかった。

 近所に住んでいたという森君子(84)も、やはり一郎のことを忘れていなかった。女たちが、白布に糸で結び目をつくり、武運長久を祈る千人針を、十二、三歳だった森も一郎のために縫った。「弾が当たりませんように」。一人一針が原則だが、森はそう祈り、何度も針を通した。「ねえ、日章旗だけで、千人針は見つかってないの。ねえ…」。森は記者の木原に何度も尋ねた。

 一郎の母親の妹の息子、つまり一郎のいとこにあたる杉山幸弘(67)は仏壇に長くしまってあった古ぼけた写真を取り出してくれた。眼鏡をかけた一郎がまっすぐにこちらを見ている。大きなバナナの葉の前で。

 一郎は南太平洋、オーストラリア北東部にあるソロモン諸島のコロンバンガラ島で死んでいた。四三年八月二十日のことだ。

 =続く

 (文中敬称略)

 

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