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さまよう日章旗

<さまよう日章旗>(2) 名を記した苦い記憶

戦争の記憶を呼び覚ますとき、松永さんは目を赤くする=静岡市葵区で

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「一郎君へ」と書かれた日章旗=「OBON2015」提供

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 横浜市の新井勲(79)が持ち主を捜す、その日章旗は中央で縦に二つに裂けている。歳月を重ねた分、茶色くくすみ、ところどころにある染みは血のようにもみえる。所有者であろう日本兵の名前は「一郎君」とだけ。日の丸を囲んで五十九人の名が並び、「武運長久」と薄墨で書いた上に、般若心経が記されていた。

 新井と並行して持ち主を捜し始めた本紙取材班の記者、木原育子(34)は、五十九人の情報を一人ずつ集めた。例えば、旗の中央下にある奥之山茂夫は静岡県警の元刑事部長。既に他界していたが、戦時中も警官だった。「一郎君」は同僚だったのか。だが、右下の福永正生は国の役所で働いていたという。旗には女性や、子どもと思われる名前もある。何人か判明した住所は近所といえる範囲には収まらない。何より、ほとんどの人が既に鬼籍に入っている。

 そんな中、寄せ書きの名と同姓同名の男性が静岡市内で今も暮らしていることが分かった。その松永安太郎(87)は自宅を訪ねた木原に言った。「一郎君ですか…。覚えがありません」。自身、出征する兵士のため、幾度か旗に名を書いたことはあるという。が、松永にとって、それは苦い記憶だった。日章旗とは何なのか。木原が「何か思い出せませんか」と訪問や電話を繰り返すうち、松永は諭すように語り始めた。

 松永は終戦の二年前、十六歳で軍に志願した。農家の八人兄弟の五男坊で、当時、ありふれていた軍国少年の一人。幼なじみの「わーちゃん」がひとあし先に出征したときは、すすんで旗に名前を記した。「お国のために死んでこい」。そんな願いを込める、それが松永の信じる日章旗の意味だったという。

 海軍兵学校を経て、松永は、特殊潜航艇「蛟龍(こうりゅう)」の部隊に配属される。出撃後の生還が難しい特攻兵器の一つとされていたが、怖くはなかった。「強国の一員に加われたような気がして誉れでした」。ついに下された出撃命令は一九四五年八月二十日。ほんのわずかな差で生き永らえた。わーちゃんは帰ってこなかった。「大事な人に、死ねと背中を押したんです」

 一郎君のことは思い出せない。が、もし本当に自分が書いたのなら…。「ご遺族に謝りたい。名前を書いてしまって、ごめんなさいって」。松永は泣いた。

 手掛かりを一つ失うかもしれない。だが、木原にはもう「他に何か…」と問うことは、できなかった。 =続く

 (文中敬称略)

 

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