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popress【Special】−特別編−
 

若手記者が見たNZ地震 (下)それぞれの思い

壁や屋根などが崩れ、がれきが散乱する市内=いずれもニュージーランド・クライストチャーチ市で

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 ニュージーランド地震の発生後、同国当局が被災地への立ち入りを厳しく制限し、取材に入った本紙記者は難しい取材を強いられた。思うような取材ができない中で、記者の「モラル」がどうあるべきかを考えさせられる場面があった。そして、傷ついた故郷に心を痛める現地の人々の姿は、同じ「地震大国」の国民として忘れることはできない。(文・写真 村上一樹、川上智世)

村上一樹(31)

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取材のモラル 自問

 「いいから乗りなさい」。警察官から、有無を言わさずパトカーの中に追い立てられた。2月22日にクライストチャーチ市で起きた大地震。発生から2日後に現地入りしたものの、予想以上に困難な取材が待ち構えていた。

 被害の大きかった市中心部では、約1キロメートル四方にわたって立ち入りが制限。警察や軍隊が警戒に当たっていた。現地入りしてすぐに日本人の多くが被災したCTVビルを目指したが、警察官に呼び止められた。

 「報道目的だ。伝えなくてはいけない」。しかし、そんな理由はまったく受け付けてもらえない。移動で使っていたタクシーとも引き離され、そのまま規制区域の外までパトカーで連行された。現地についてまだ数時間。高圧的に見える警察官の態度は、その後の取材の困難さを予想させた。

 取材ができない状況はその後も続いた。地震で被災し、負傷した生徒が入院している病院では、警察官らから敷地内の立ち入りを禁止され、「もう一度入ろうとしたら拘束するぞ」と強い口調でくぎを刺された。

 人に会えない、話を聞けない。特に悩ましかったのは、被災した家族らへの取材だ。口を固く閉ざし、思いを直接聞くことができない。ビルの倒壊現場や、遺体の安置場所へ家族らが訪問した時も、その様子を見ることも、話を聞くこともできなかった。

フェンスの外から被害の大きかった立ち入り禁止区域を眺める市民ら

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 家族の思いはどうだったのか。それを伝えるにあたり、今も違和感が残ることがある。犠牲者の遺体が安置されている陸軍基地の入り口に、日本人家族らが思いを込めた手紙や花束がささげられていると記事にした時のことだ。

 メッセージが見えるカードもあったが、ほとんどの手紙は封筒に入ったままだった。開けて見ようと思えば、見ることはできた。だが、それはしてはいけないと思ったし、その時一緒にいたほかのメディアも、そこまでする人は一人もいなかった。

 しかしある新聞には手紙の文面が全文載っていた。内容は胸に迫るものがあり、訴える記事ではあった。だが、あの手紙は誰かが開けない限り見ることはできないはずだ。誰が封筒から出したのかは分からないが、家族はどのように思っただろうか。

 報道のモラルとは。取材が困難な現場であったからこそ、記者として考えさせられることが多かった。

川上智世(29)

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故郷失う悲痛同じ

 ニュージーランドを訪れるのは、今回の取材が初めてだった。そのためか、初め、街が打撃を受けたこと自体は「ニュースの一つ」としか思えなかった。

 しかし、タクシー運転手の悲しみに暮れる様子を目にし、その気持ちが変わった。無残な姿に変わり果てた街をみるたび、ため息を漏らす。「How are you」のあいさつにも、平常時なら「fine」となるところだが、返されるのは「not good」。

 住民たちにすれば、壊滅的な被害を受けた街を見るのは、思い出の喪失も意味する。つらいのは当然だろう。そんな思いを抱えつつ、今月10日に帰国した翌日。東日本大震災が起きた。

 私が15歳から成人するまでを過ごした宮城県名取市も大きな被害を受けた。津波にすべてをのみ込まれた光景を新聞やテレビで見て、泣いた。

 東北出身の友人もいる。「本人も、家族も大丈夫だったろうか」。ネットの掲示板などを通じてみんなの無事が確認できたのは、発生から6日たってからだった。

 今なら、あのタクシー運転手の気持ちが心に突き刺さるようによく分かる。ふるさと喪失への悲しみは深く、重い。

 クライストチャーチを離れる直前。運転手の返事は「fine」とまでいかないものの「not bad(悪くはない)」にまで戻っていた。私たちもそう言える日を取り戻さなければならない。

 

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