トップ > 北陸中日新聞から > popress > Human Recipe > 記事

ここから本文

popress【Human Recipe】あの人はどうやって「今」にたどり着いたか
 

夢の続きへ はやる魂 アルペンスキー 皆川賢太郎

写真

 4大会連続で五輪に出場した日本のトップアルペンスキー選手・皆川賢太郎(33)の競技人生は、決して順風満帆ではなかった。外国人選手との体格差、選手生命を脅かす2度の大けが−。困難を乗り越え、現役生活の“終着点”と決めた3年後のロシア・ソチ大会を目指す、その精神力の強さに迫る。(昨年12月に金沢市で行われたイベントに合わせ取材)(担当・小西亮)

突き動かす 五輪の興奮

−「常識外れ」への挑戦

 地元が苗場スキー場(新潟県湯沢町)の近くで、生まれたときからスキー場にいた。純粋に、誰よりも速く滑りたくて競技にのめり込んだ。

 世界に出るようになって、大柄な外国人選手が有利なことを実感した。そんな中、僕の身長でもやれると気付いたのは、長野五輪(1998年)後に、当時使っていたスキー板より40センチほど短い「ショートスキー」を取り入れたとき。

 ほかの選手たちは使わなかったが、使ってみたら「なんて良い道具なんだ」って。プロだから、自分の感覚を大切にしたかった。若さの勢いもあったけど、必ず結果が出ると思い、何一つ疑わなかった。実際、それまで勝てなかった選手に圧倒的な差をつけて勝てるようになって「ほらみろ」という感じだった(笑)

−選手生命の危機

 ソルトレーク五輪(2002年)直後に左ひざの靱帯(じんたい)を断裂し、トリノ五輪後には右ひざの靱帯を切った。手術して、歩くところから始めることになった時、選手に戻るのは無理だとも思った。ただ「皆川賢太郎は何をやっている人?」と自問したら、自信をもって言えるのはスキーだけ。再びやれるかどうか、挑戦してから決めたいと思った。

 けがで動けない分、すごく物事を考えられるようにもなった。未来のために何をすればいいのかという「逆算」の考え方を持てるようになった。未来に向けプラスなことをやろうとする気持ちは貪欲になりましたね。

写真

−貫くポリシー

 子どものころ、おやじ(競輪選手だった賢治さん)からは「ずるい選択をするな」と言われてきた。例えば、きついから練習の量を減らして楽をするなという感じ。これは今でも重要な選択をする時の心得になっている。

−五輪の景色

 五輪には4回出場しているが、(06年トリノ大会の)1回しかゴールしたことがない。その時は、ゴールした時の達成感というか、味わったことのない感覚だったので、もう一度味わえたら辞めてもいいかなって。これまで経験してきたつらさは人より多かったと思うけど、競技のあるたった1日ですべてOKになる。それにあの舞台での緊張感も味わいたくて。

−私生活の変化

 おやじが亡くなった時に支えてくれていたのが彼女(妻のスキーモーグル選手・上村愛子さん)。おやじが亡くなったことと、愛子が家族に加わったことで責任感を持てるようになった。彼女のものの考え方がすごく好き。返ってくる言葉も納得できるし、物事への考え方も似ている。僕の人生の中で一番大切な人。

−ソチへの道のり

 最初の長野、次のソルトレークは希望だらけだった。それからけがをしてリハビリの人生。ソルトレークからトリノの4年は、人のためというのもあったが、今はわがままにやりたい。

 イメージ通りにいかないこともたくさんあると思うが、つまずいたら対処して、またつまずいて対処して。「大変だね」とよく言われるけど、逆に大変じゃないことを選ぶほうが、自分らしさを長く維持することが難しいんじゃないかって。自分が決めたことを達成したい。やり遂げて、ここが終点なのかって思いたい。 

【メダリスト】

 (五輪のアルペン競技で)日本人ただ一人のメダリスト、猪谷千春さん。自分の人生で越えたい人物です。

写真

【異業種の仲間】

 スポーツブランドとして知られる会社「ドーム」の取締役3人とは、長野五輪のころからの付き合い。当時は社員5人の小さな会社で「どっちが目標をクリアできるか勝負だ」なんて毎日のように夢を語っていた。彼らの存在なしに今の自分はなかったと思うほど。

 みながわ けんたろう アルペンスキー選手 1998年の長野大会以降、ソルトレーク、トリノ、バンクーバーと五輪に4大会連続出場。アルペン界では長いスキー板が主流だった時代に、短い板をいち早く導入し、「スキーの革命児」と呼ばれた。173センチ、86キロ。

 

この記事を印刷する

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索