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【楽しむ】三味線 憧れの音色 幼い頃から 年重ねても

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 幼い頃から親しんできた和の音色を自分の手で−。大人になってもずっと抱いてきた夢をかなえた富山県魚津市の窪田琴美さん(52)。「大好きなんです! 三味線の音が」。そう話す瞳は少女のように輝いていた。

 生まれ育った魚津市では夏の一夜、伝統の郷土民謡「魚津せり込み蝶六(ちょうろく)」が流れ、数千人が日の丸の扇子を両手に踊る「街流し」が繰り広げられる。その輪に加わったのは「物心ついたときから」。次第に舞台上の着物姿の三味線奏者にあこがれ、習わさせて欲しいと親に頼んだ。「母が『大人になって自分でできるようになったら、したらいいね』と言ってくれたのをずっと忘れず、いつかはと思っていた」

 四十九歳の十二月だった。ふと目にした魚津せり込み蝶六保存会のフェイスブックで会員を募っていた。早速、連絡した。「ずうずうしくも三味線をやりたいんですと言ったら『来られ、来られ』となって。あれを見なかったら一生、あこがれだけだった」。中古の三味線を買って行くと、三味線歴四十五年の元保存会長から週一回、二時間の個人指導を受けることになった。

 「先生が大御所だったのもあるけれど、手が震えて。『本当にやる気があるんか』と聞かれて自分に問い、私はこれがやりたかったんやという思いを伝えたら『よし分かった』と」

魚津人だからこそ

 最初の一カ月は三味線の話のみ。ばちを持っても、うまく音が出せない日が一カ月続いた。初めて習った曲は「こきりこ節」、次に「越中おわら節」。蝶六は丸一年たってからだった。「本当にうれしかったが、ところがどっこい。蝶六は難しい。独特な音色があって。でも魚津人だからこそ弾けるんだぞと言われて、いっそうわくわく感がした」。蝶六は譜面もなく、手本の音色を聞き、指を微妙に動かし、音にする−。練習が続いた。

2年目 初の街流し

 二年目の夏、初めて街流しの舞台へ。「そこで弾いているのに酔いしれ、幸せだった」。上演の機会は年に十回以上あり、県内であった全国豊かな海づくり大会や全国植樹祭、昨年の「ねんりんピック」といった大舞台も踏んだ。

 三味線を離れると、市内の餅店「源七」の製造、販売を担う専務の顔に。創業間もなく現在の二代目社長の夫と結婚し、三人の子どもを育て上げた。三味線の話を切り出すと「いいんじゃない」と反対はなく、次男の三代目継承が決まった直後でもあった。「だから、こんなに夢中になれたと思う」

 保存会に三人いる三味線奏者の中で一番経験が浅い。「まだぺいぺい。満足する音まで全然いかない」と語るが、三味線への愛着、熱意は真っすぐ伝わる。「音が深いって言うか。心に響く。先生の音を聞くと飽きない。感動して泣きそうになる。もっともっと極めたい。蝶六はずっとやっていくけれど、いろんな民謡もやりたい」

 着物姿のおばあちゃんが小さくなって正座し、そこに三味線がある。そんな「将来の理想の姿」も鮮明だ。 (富山支局長・松石健治、写真も)

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松石記者もやってみました!

 音楽はよく聴く。でも楽器となると、高校時代の一時期にギターをかじったぐらいだ。まず三味線とばちの持ち方を教わる。渡された三味線はずっしりきた。「えッ、こんなに重いんですか」と思わず聞いた。ばちも予想以上に重い。

 三味線は左手をさおから離しても、さおが下がらないように構える。そんなことができるのかと心でつぶやき、やってみるがなかなかできない。結果は断念。

 ばちも、さっと握るわけでなかった。内側に来る小指がつりそうになる。完全な形に程遠いが、何とか持つ。「三味線は太鼓。ばちで打ってたたくんです」。右手をくの字に曲げ、弦を上から弾いたばちをそのまま胴の表面へ。三味線らしい音がした。

 「では、私も習った『おわら』のさわりをやってみましょうか」。見よう見まねで左手の指で弦を押さえ、ばちを動かす。続けること一時間。姿勢が崩れ、ばちがふらつき、正座も限界を超えた。

 「先生は『俺なんかまだまだ。三味線は奥が深いんだ』とよく話されます」。その言葉に、生易しい道でないことを思い知り、伝統の楽器や芸能の継承に尽力する人たちに心から頭が下がった。

 当然ながら一時間でまともに弾けるはずもなく。でも「今できましたね。上手、上手。三味線やってみては」とのお褒めに気分が楽になり、やる気がわいた。学ぶ楽しさを、定年退職を迎える年に少しでも体験できたのは貴重だった。

 

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