トップ > 北陸中日新聞から > ホープフル > 記事

ここから本文

hopeful

【楽しむ】楊枝職人 鋭い技と、優しい心

写真

 五月の大型連休中、富山県南砺市の道の駅福光で、埴生楊枝(はにゅうようじ)の実演販売があった。香り高いクロモジ材を使った伝統工芸品の楊枝のほか、はしや茶しゃくなどが並んだ。いずれも木肌の白と樹皮の黒に削った意匠が映える。実演の職人は、同県小矢部市の田中健志さん(76)。再雇用中の六十二歳から修業して独立した。

実演が大切

 実演場所は玄関口をくぐったロビー。販売には好適だが、人が通るたびに自動ドアの開閉がせわしない。だが、田中さんの視線はずっと手元にあって揺るがない。自宅の工房からケヤキの切り株の削り台を持ち込み、周囲に商品を配した。妻の勇美子さん(71)は「二人の息子も挑戦者のお父さんをすごいと言ってます」とレジに立って協力する。

 田中さんは、楊枝の種類を尋ねたり、作品を手に取ったりする客に優しい口調で説明をする。「お客さんは全世代。実演は、興味を持ってくれた人の気持ちが伝わってくる大切な場」という。携帯できる楊枝入れセットを求めた南砺市の主婦(68)は「すてきやわ。かばんに入れておきます」と笑った。

写真

 田中さんは小矢部市生まれ。高校を卒業後、運送会社に入り、事務職として関東を中心に赴任。五十五歳で小矢部に戻り、六十五歳まで勤め上げた。

 楊枝職人への転機は再雇用中の六十二歳のとき。テレビの旅番組で紹介されたのが千葉県君津市にある「雨城楊枝」の工房だった。江戸時代に武士の内職として始まったとされる同県の伝統工芸品。機械生産品とは違う飾り楊枝が高級品として伝統をつないでいた。

 「面白そうだと思った。クロモジは香りのいい木だという良い印象がある。親が戸大工で、家には刃物、ノミもあった。定年も過ぎたし、次はこれだ」

 テレビに出ていた工芸制作者の初代森光慶さんに「ぜひ、教えてください」と電話した。いい返事がもらえなかったので直接、工房を訪ねた。熱意が伝わり、弟子入りがかなった。

68歳で独立

写真

 以来、年に五、六回現地を訪れ、指導を受けた。千葉県には長男が住んでいて宿泊もできた。田中さんは「基本が大切。つま楊枝がきれいにできればほかのもできる。やればやるほど面白かった」と振り返る。再雇用も終えた三年後の二〇一〇年、六十八歳で独立を許され、小矢部の地名を取って埴生楊枝と名乗った。

 書斎だった自宅の四畳半が工房。一日四時間、回転座椅子に座り、削り台に向かう。道具はナタと自家製の小刀。小刀は鉄を切るノコギリを加工し、砥石で仕上げる。薄くてよくしなるのがいい小刀だ。

 「趣味は山歩きと渓流釣り。楊枝は商売。若かったら店を持つつもりだった」が、不安もあってやめた。通信販売用にインターネットのホームページも作ったが、「手に取って温かい手触りを感じてほしくて」やめた。知人や友人を通じての販売、市や観光協会などからの依頼、観光・物産展への出品が販路になった。

 商品はつま楊枝が二百五十円から。お菓子楊枝は松竹梅や白魚などのデザインがいろいろ。取り箸やフォーク、ナイフ、マドラーなど二十数種類ある。

 クロモジは知人の山に入って採取する。雪が降る直前の十一月がいい。乾燥すると、皮が実と収縮が違うためはがれてしまう。湿度を保つため、枝を包装して冷蔵庫で保管している。

 楊枝は機械打ちの大量生産品が流通して、職人に厳しい時代。「手作り品は、隅々まで気持ちが行き届いている。なくさないように、継承していきたい。後継者は、やっているうちに興味がある方が出てくるでしょう。私は“面白そうだ”が商売になった」と話す。 (小畑一成)

写真

小畑記者もやってみました!

 小学生のころは、折りたたみ式の小刀「肥後の守」を筆箱に入れ、鉛筆削りに飽き足らず、授業中に鉛筆の頭にこけしを掘るなど細工を施していた。祖父は指し物大工だ。少しはできるはずだったのである。

 削りを体験させてもらった。田中さんの工房で、隣のスギの削り台に座る。刀の持ち方を教わり、左手にナタで小さくしてもらったクロモジ材を台に当てる。老眼でピントが合わず、メガネを外した。小刀を前方へスライドさせると、角度が深く入って楊枝(ようじ)を短くしてしまった。甘くない。田中さんから「脇を締めて」とアドバイスをもらった。

 「削りくずを見れば技術が分かる」という。理想は七回削りでの完成。田中さんでも十回くらい。私は三、四十回削った。田中さんのと比べると一目瞭然で「まだまだ」と言われた。常に同じものを作る領域はどれほど遠いことか。

 

この記事を印刷する

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索