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挑戦 北陸財界ものがたり

北陸銀行(3) 地域社会と苦楽共有

馬瀬清亮氏(北陸銀行提供)

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 「地域のお客さんあっての北陸銀行。東京に缶詰めになると地域のお客さんに迷惑がかかる、と言って馬瀬さんは全国地方銀行協会(地銀協)会長就任を辞退された」。一九八六(昭和六十一)年秋、馬瀬清亮の勲章受章祝賀会で、横浜銀行の吉国二郎会長(当時)は、自身が務めていた地銀協会長の後任を馬瀬に打診した時のエピソードを明かした。

 当時、地銀協会長は日銀の金融政策委員にも就任するなど地銀関係者にとって最高のポストだった。総合企画部に在籍し会場整理を担当、後に北陸銀行頭取を務め現在は特別顧問で、富山商工会議所会頭の高木繁雄は、吉国の話を聞き「やはり馬瀬さんは欲のない人だった。これぞ地銀の原点」と感銘を受けた。

 「銀行は地の塩であり、取引先の苦境の際にこそ、お役に立たねばならない。しかし決して表に出るものではない、とわれわれをいさめた。あなたの人格と思想は北陸銀行の精神的風土として今も生き続けている」。九四年一月二十八日、前年末に亡くなった馬瀬清亮の告別式で、実行委員長の久保田照雄会長(当時)は弔辞で馬瀬をたたえた。

 岐阜支店長だった高木も富山市内であったお別れの会に参列。岐阜へ戻ると本店秘書課から電話を受ける。「岐阜銀行(当時)の有吉慶三頭取が参列された。会葬のお礼に行け」。岐阜銀行へ走ると有吉頭取(当時)は多忙だったにもかかわらず頭取室に招き入れ、馬瀬の思い出を語り出す。

 有吉は日銀金沢支店長だった。「馬瀬さんは大手メーカーが苦境に陥った時、地元銀行を粘り強く説得して協調団を組み、対応してくれた。それ故にその会社は今日ある。私は真のバンカーを見た」。だからお別れの会にも自分の思いでお参りに行った、と有吉。「そういう立派な頭取をいただき、薫陶を受けているあなた方は幸せと思いなさい」。高木は体が震えるくらいうれしかった。頑張ろう、と決意がみなぎった。

     ◇

 七〇年三月、田辺友太郎頭取の死去により後任に推されたのが馬瀬だった。十年におよぶ頭取時代はニクソン・ショックをはじめ、列島改造ブーム、オイルショックと日本経済は波乱に満ちていた。しかし馬瀬は銀行経営の原点を守り、経済の広域化と国際化に対応した経営体質づくりに心血を注いだ。世界的な金融情報を正確に、早くキャッチし国際化を進めるため七七年十一月、北陸銀行初の海外拠点として米・ニューヨークに駐在員事務所を開設した。

 また馬瀬は、銀行の情報サービスへの要望の高まりを受け七八年三月には、財団法人北陸経済研究所を設立。産業や地域開発、経済の調査研究から経営相談まで幅広く担った。

 七八年には富山商工会議所会頭に就任し地域経済の発展にも尽力。北陸新幹線の建設促進、富山空港のジェット化など交通網整備、富山駅前の再開発など行政と協力して実現を図った馬瀬。「銀行が今日あるのは地域のおかげであり、そのために少しでも恩返しができれば、という立場を終始貫いた」。久保田は弔辞で馬瀬の功績を強調している。

 七七年八月、北陸銀行は一八七七年に前身の金沢第十二国立銀行が発足してから創業百周年を迎えた。頭取として馬瀬は富山市の本店での記念式典で式辞を述べ、北陸銀行の基本理念として「地域社会と苦楽をともにし、真に信頼される銀行になる」など三項目を示す。

 地域の企業、個人が努力している時、北陸銀行も苦労を分かち合い、地域社会の発展の中に銀行の繁栄を見いだしていこうとする態度と実践が必要だ、と呼び掛けた。この指針は今も北陸銀行に生きている。

  (敬称略)

 ませ・せいすけ 1916(大正5)年8月31日富山市生まれ。富山県立富山中学校、旧制富山高校から東京帝国大法学部卒。46(昭和21)年、北陸銀行入行。常務などを歴任し70年3月頭取に就任。80年6月会長、90年6月相談役、92年顧問。この間、富山県銀行協会長、全国地方銀行協会副会長、富山県公安委員長、富山市民文化事業団理事長、富山商工会議所会頭、北陸経済連合会副会長などを務めた。93年12月18日、77歳で死去。

 

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