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挑戦 北陸財界ものがたり

北陸銀行(1) 国策優先 一夜で合併

中田清兵衛(15代)=北陸銀行十年史より

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 「残念ですが、お断りします」。実家が富山市で経営していた密田銀行を救済してほしいという申し入れに、十二銀行頭取の中田清兵衛は答えた。ほどなく密田銀行は行き詰まる。「資金を融通さえしてくれたら、こんなことにはならなかった」。恨み言を言う親戚に中田は言った。「私は多くの方々から信頼されて銀行を預かっている。もし融通して万一にもお客さまに迷惑を掛けることがあっては大変だ。だから援助しなかったのです」。中田は身内だからといって特別扱いしなかった。

 富山県教育記念館編「立山を仰いで−ふるさとの先賢」が昭和初期、相次ぐ恐慌で企業、銀行が次々に倒れた当時の中田を伝えている。中田の孫でナカダ薬品ほか三社が合併した金沢市の医薬品卸売会社ファイネス会長、中田佳男(72)=富山市=は「怖いおじいちゃんだったが、公私をしっかり分けた人だった」と祖父をしのぶ。

 中田家は四百四十年余りの歴史を誇る、富山県きっての名家だった。しかし中田は五男五女の子どもにもぜいたくをさせずお金の大切さを身をもって教えた。子どもが学生時代、旅行に行きたいと言えば計画書を出させて費用を計算。その分を店で働かせて渡した。

 佳男は返事を出す必要のない往復はがきの返信用文面を墨で塗りつぶし、真っ黒になったその上に鉛筆で文を書いて使っていた中田を覚えている。倹約家で無駄遣いをしなかった祖父だったが、菩提(ぼだい)寺のほか医療、福祉など社会のための寄付は惜しまなかった姿を覚えている。

 戦争に向けた国家統制が強化される中、政府は「一県一行」の方針を掲げ銀行の合併を推し進める。当時、全国の銀行は一九二三(大正十二)年の関東大震災から金融恐慌、昭和恐慌と続く経済の混乱で苦しい経営を強いられていた。

 四三(昭和十八)年一月二十六日、金沢市の日銀金沢支店への年賀あいさつで偶然そろった十二、高岡、中越、富山の富山県内の銀行四行首脳に斎藤良弼金沢支店長(当時)が合併を強く要請、大蔵省へ出向いて協議するよう促す。翌二十七日、四人は斎藤支店長とともに東京・大蔵省で合併の覚書を取り交わした。北陸銀行の誕生が決まった瞬間だった。

 「新年あいさつに行った時に急に合併の話が出て、その晩に上京するという慌ただしい情勢でした」。当時、十二銀行頭取で合併を主導した中田は、北陸銀行十年史の座談会で振り返った。中越銀行の岡本八平も座談会で、合併に至る経緯を「中越としては何も好きこのんで合併の線に持っていかなくてもいいと思っていたが、国策が優先するものですから、いってみれば無理押しに押しつけられたのが本当です」と明かしている。十二銀行でも重役会で合併に反対する意見が出た。だが中田は、国家のために応じなければいけない、と抑えた。 (敬称略)

 なかだ・せいべい 1876(明治9)年9月26日、富山市で薬種商を営む密田林蔵の5男として生まれる。茶の木屋中田家の養子となり15代清兵衛を襲名。富山中学から金沢医学専門学校薬学科を卒業。中田家の薬店、書店を営む一方、1917(大正6)年に先代清兵衛の後を継ぎ十二銀行頭取に就任、北陸銀行の発足とともに初代頭取となる。富山県知事を務めた中田幸吉は5男。70(昭和45)年5月26日、93歳で死去。

 北陸銀行の源流 1877(明治10)年8月に旧加賀藩主前田家を中心に金沢市で設立された金沢第十二国立銀行と、79年2月に富山市で発足した富山第百二十三国立銀行が84年1月に合併し富山第十二国立銀行(本店・富山市)となった。97年に十二銀行と改称。高岡銀行は89年7月に富山県高岡市で営業を始め、95年に発足した高岡共立銀行と1920年に合併、新たに高岡銀行を設立。中越銀行は1895年1月に同県砺波市で開業。富山銀行(現富山銀行とは無関係)は96年4月に富山市で開業の富山橋北銀行が1911年に改称した。43(昭和18)年7月、十二、中越、高岡、富山の4銀行が合併して北陸銀行が誕生。発足当時、預金高は5億6300万円で地方銀行中、静岡銀行に次ぎ2位。北陸3県と北海道に基盤を持つ金融機関として発展。2004年に北海道銀行と経営統合して「ほくほくフィナンシャルグループ」を設立した。

 

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