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挑戦 北陸財界ものがたり

大和(5) “戦艦対決”の参院選 

「大和対武蔵の戦艦対決」といわれた参院選で勝利の万歳をする井村徳二陣営=写真集「石川百年」より

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 「自分たちは選挙運動をしろとは言われなかった。店を空けお客さんに迷惑を掛けるわけにはいかなかったから。それだけに当選が決まった時はみんな本当に喜んだ」。金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大)を一期生として卒業し大和の宣伝部員として働いていた小泉進(87)=金沢市=は思い出す。

 一九五三(昭和二十八)年四月二十四日、参院選の投票日。全国の目が石川県の議席の行方に注がれていた。三人が立った選挙戦は事実上、百貨店「大和」の井村徳二社長と百貨店「武蔵」社長で国務大臣林屋亀次郎の一騎打ちだった。それぞれ経営する百貨店の名をとり「大和と武蔵の戦艦対決」と騒がれる激しい選挙戦を繰り広げた。

 結果は井村二十一万四百四十二票、林屋十九万四千二百七十九票。翌日開票も含め井村の当選が決まると金沢市片町の百貨店「大和」向かいの空き地で当選に感謝する演説会が開かれた。「弁士が立つたびにバンザイの歓声と拍手。大和の屋上から紙吹雪や五色の紙テープが投げられた」。大和の社史は伝えている。

 初め井村に出馬の考えはなかった。五二年当時、林屋は井村が石川県連会長を務める民主党の参院議員として再選が確実視されていた。しかし、保守合同を目指す林屋は改進党結成に参加せず、自由党の吉田茂内閣で国務大臣に就任する。改進党関係者は裏切りと非難。党県連会長だった井村に出馬を求めた。

 林屋は大和を設立した時の会長であり付き合いは長い。悩みに悩んだ末、井村は決断する。五三年新春、大和のグループ企業幹部を集め「公党人として筋を通し責任を果たすため、たとえ私の五十年の努力が水泡に帰してもやむを得ない」と出馬の決意を伝えた。

 元副社長の上田正二(故人)は起立して「もはや何も申し上げることはございません。勝利を目指し死力を尽くすのみです」。ここまで言って涙があふれたという。後年、上田は北陸中日新聞に掲載された元衆院議員で金沢市長も務めた徳田与吉郎との対談で明かしている。

 当時、石川県内灘村の砂丘地を米軍の砲弾試射場として接収する問題が国政を揺るがす反対運動に発展。地元を説得しようとした林屋に対し、井村は永久絶対反対を掲げて「参院選の最大の争点になった」(石川県史)。

 対談で徳田は「終盤戦に入るともう大混乱。政界財界は真っ二つ。夫婦が対立する。飲み屋に行けばけんか。それほど両陣営とも燃えた」と述懐。上田も「選挙と無関係のマスコミ、金融機関、諸官庁までかかわりを持たざるを得なかった」と激戦の様子を語った。

 選挙をきっかけに井村は金沢に本社を置く北陸新聞の経営を引き受ける。井村が亡くなった後、大和は中部日本新聞(現中日新聞)に援助を求める。中部日本新聞は六〇年に北陸新聞と業務提携して北陸中日新聞社を設立し北陸中日新聞を発刊。六五年に営業権を譲り受けた。 (敬称略)

 

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