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挑戦 北陸財界ものがたり

大和(4) 武蔵舞台に共闘、対立

林屋亀次郎

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 三越との賃貸契約を継続せず、自身での百貨店経営を目指し提携を申し入れた林屋亀次郎に百貨店「宮市大丸」の井村徳二は答えた。「よし、やりましょう」。金沢市武蔵ケ辻から三越が撤退した後、井村は林屋を支援し一九三五(昭和十)年九月、百貨店「丸越」の設立に協力する。これが百貨店経営だけでなく政治の世界でも戦うことになる井村と林屋の関係の始まりだった。

 林屋は井村が激闘を繰り広げた三越を誘致した本人。その林屋を助けた井村には理由があった。申し出を断っても三越の跡には別の大きな百貨店が出てくる可能性がある。そんな店と再び利益を無視した販売競争を続ければ宮市大丸も体力を消耗してしまう。

 林屋は三三年、武蔵地区の発展を図るためとはいえ三越誘致で苦境に立った宮市大丸に配慮し、隣にあった自分の茶の店の土地を安く譲った。この土地があったからこそ店の拡張、近代化ができた。丸越への援助は、林屋の好意への井村の恩返しでもあった。「井村徳二伝」で共著者の新保辰三郎、千代子はその胸の内を推し量る。

 戦時中、同じ業種の企業の合併が進められ「宮市大丸」と「丸越」が四三年に合併した「大和」で、丸越の社長だった林屋亀次郎は会長、宮市大丸の社長、井村徳二が社長に就任する。

 大和の社史「大和五十年のあゆみ」によると当時、物資が不足し、従業員も次々に徴兵される中、四四年五月、丸越百貨店だった武蔵店は閉鎖され軍需産業の会社「大和航器」となる。初め伊藤忠兵衛と提携し、伊藤が設立した呉羽航空機(富山市)の協力工場として木製戦闘機の部品作りを担うことにした。しかし、計画は進まず三菱重工業名古屋航空機製作所の協力工場となる。

 翌年、戦争は終わる。商品もない時代で大和航器からあらためて大和が一階を借り四五年九月、「大和武蔵店」として営業を再開した。大和会長の林屋は石川県商工会議所と金沢商工会議所の会頭に就任し北陸鉄道の社長も務めるなど多忙を極め、百貨店事業は井村に任せたいと申し出る。井村は林屋の胸中を察し、林屋が建設し、大和航器から名前を変えた大和ビルディングを林屋に譲った。

 五二年七月に大和は武蔵店を閉鎖。九月、林屋は大和ビルディングで百貨店「武蔵」を創業し社長に就任し翌五三年四月、井村と激突する。大和の井村と武蔵の林屋。これが「大和対武蔵の日本海戦艦対決」といわれた参院選だった。 (敬称略)

 はやしや・かめじろう 1886(明治19)年6月1日、金沢市に生まれる。金沢商業学校(現金沢商業高)を中退し京都で宇治茶の販売業を営み宇治村議となる。1926年、金沢に帰郷。35年、武蔵ケ辻で百貨店「丸越」を創業し社長に就任。北陸鉄道社長、石川県商工会議所会頭、金沢商工会議所会頭などを歴任。47年に参院議員に当選し、吉田茂内閣に国務大臣として入閣する。56年、62年と当選し参院議員を通算3期務めた。この間、参院自民党議員会長。北陸大を創設するなど教育界の発展にも尽くした。80年5月4日、93歳で死去。

 

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