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挑戦 北陸財界ものがたり

大和(1) 父子奮闘 結実の創業

大和デパートの創業者・井村徳三郎=「石川百年」より

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 「京都の百貨店、大丸で弟の友達が社長秘書をしている。この人を通して社長に話をしてみてはどうか」。後に父、井村徳三郎と百貨店「大和」の前身、宮市百貨店を設立する井村徳二は、ふらりと訪ねた金沢市小将町の菩提(ぼだい)寺で住職から耳寄りな話を聞く。何とかして提携を実現したい。徳二は徳三郎とともに京都へ走る。二人と会った大丸(現・大丸松坂屋百貨店)の下村正太郎社長は「お手伝いさせていただきましょう」。ただ一回会って提携を了承してくれた。これが北陸初の百貨店創業への第一歩だった。

 徳三郎の実家、宮家は当時、金沢市片町で宮市唐物店を営んでいた。兄の死去に伴い店を任された徳三郎は、海外の博覧会に選び抜いた商品を運んで成功。持ち帰った服地や洋酒を販売して店を繁盛させていた。

 外国で百貨店の将来性を確信した徳三郎は、開業に向けて準備を急ぐ。早稲田大の学生だった徳二を説得し中退させる。百貨店に欠かせない呉服を扱うため、二人で金沢の老舗呉服店に提携を申し入れるが、すべて断られてしまう。新保辰三郎・千代子共著「井村徳二伝」は、二人を救ったのが住職の提案だったことを記している。

 大丸は当時、日本有数の呉服の老舗として知られ三越、松坂屋に続いて一九一二(明治四十五)年、百貨店を開業していた。金沢でも年に二回、殿町の料亭で出張販売会を開き「京呉服の大丸」として人気を集めた。北陸進出の計画もあり、社内では徳三郎との提携に反対の声があったが下村社長は強引に退ける。

井村徳二

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 提携により宮市百貨店に金沢出張所を設ける契約を結ぶ時も下村社長は「金もうけのため出張所を設けるのではない。井村父子の熱意に対し、その事業の成功を祈ってお手伝いするのだから利益も損も折半にしましょう」と言って徳三郎、徳二親子を感激させた。

 二三年十月十五日、金沢市片町に木造一部四階建て延べ約千百五十平方メートルの宮市百貨店が開業する。大和の社史「大和五十年のあゆみ」によると、一階が食料品と婦人雑貨など、二階は呉服、三階に子ども用品と家具、陶器、漆器。四階は食堂、おもちゃなどの売り場だった。二階は全部、呉服売り場となり、京都大丸金沢出張所が併設された。

 当時は珍しかったエレベーターを備え、玄関ではドアボーイが「いらっしゃいませ」と声を掛ける。開業初日はあいにく雨だったが、午前九時の開店前から買い物客が詰め掛けた。げたなどを預けて入店する当時の方式が混雑に拍車をかけ、徳三郎が陣頭に立って指揮したという。大和の社史は初日、約二千五百人が来店したと伝えている。 (敬称略)

 いむら・とくさぶろう 1867(慶応3)年5月12日、宮市三郎の三男として金沢市に生まれる。14歳から横浜の貿易商で働き、渡米する親友井村佐平の家名を継ぐため井村家の養子となる。長兄が亡くなったため金沢に戻り、金沢市片町にあった宮市唐物店の経営に当たる。1923年10月、次男徳二とともに北陸初の百貨店「宮市百貨店」を創業した。晩年、実家の宮姓に戻り32年3月14日、64歳で死去。

 いむら・とくじ 1899(明治32)年11月18日、井村徳三郎の次男として金沢市に生まれる。早稲田大を中退し23年、父とともに宮市百貨店を創業。30年、宮市大丸として専務(社長空席)に就任、42年に社長。43年12月、大和発足とともに社長となる。47年の衆院選石川1区で当選し、49年には北陸鉄道社長を務める。53年の参院選で林屋亀次郎を破り当選、経済企画庁政務次官となる。58年10月27日、東京で急逝。58歳だった。

 

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