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挑戦 北陸財界ものがたり

コマツ(6) 色あせぬ創業の理念

コマツの創業者、竹内明太郎=コマツ提供

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 「鳥越村に水力発電所の記念碑がある。小松製作所に関係あると聞いている。調べてもらえないか」。一九八〇(昭和五十五)年秋、石川県小松市の小松製作所(現コマツ)粟津工場に北海道別海町の酪農家、北出博(故人)から手紙が届く。鳥越村(現石川県白山市)から家族で北海道に移住した北出は、発電所に勤めていた父親が大切にしていた石碑が気になっているという。

 粟津工場の調べで、石碑が見つかる。水路記念碑と刻まれた碑には「為芳谷炭坑株式会社 竹内綱」の名前。芳谷炭坑(佐賀県唐津市)を経営していた竹内綱の竹内鉱業は〇二(明治三十五)年、小松市鵜川町の遊泉寺銅山を買収した。石碑は銅山に電力を供給する発電所の完成を記念して〇七年に建てられた。難工事の水路開設に協力し、発電用の水の供給を受けて稲が栽培できるようになった住民の喜びを伝えている。

 竹内綱の長男、明太郎が遊泉寺銅山の経営を担い発展させる。パリ万博などを視察して機械工業の重要性を見抜いた明太郎は一七年、銅山で使う機械類を製造するため現在のJR小松駅隣に小松鉄工所を開設。二一年に独立して誕生したのが小松製作所だった。

 石碑の話を聞いた小松商工会議所機械金属業部会(当時)のメンバーが「小松市の機械金属業の歴史がこの碑にある」と声を上げ、地元の協力を得て八三年六月、改修し近くに移した。これをきっかけに部会メンバーは出身地・高知県宿毛市を訪問するなどして明太郎を調査。九一年五月には小松製作所の源流・銅山跡に記念碑を完成させる。

 部会長も務めた室戸実(88)=室戸鉄工所会長、小松市=は、遊泉寺銅山で働いたことがある父からハンチング帽にわらじ履きで現場に来ていた明太郎の話を聞き「いつか顕彰したい」との思いを募らせていた。

 小松鉄工所を地方都市、小松に設けたことには明太郎の哲学があった。「鉱山がなくなった後もその地を衰退させず、受けた恩に報いる」。鉱山は掘り尽くせばなくなる。しかし、工業には新たな産業を生み出す力がある。部会が後に編んだ伝記「沈黙の巨星 コマツ創業の人 竹内明太郎伝」は説いている。

 室戸は、明太郎が人材育成に力を尽くしたことを強調。明太郎の遺訓(1)製品は完全なものに(2)人の養成は将来を考え努めて多く−などを挙げ「百年前に今でも通用することを言っていた。たいしたものだ」とたたえる。明太郎が掲げた「真の国産化とは独創の製品を海外に輸出することにある」などの経営理念は、今も色あせない。

 小松市の市街地から東へ約八キロ。遊泉寺銅山跡にある記念小公園の一角に部会が中心になって九六年に建てた竹内明太郎の銅像がある。近くの遊泉寺町に住むコマツ粟津工場OB会長、西尾皓史(75)は「明太郎さんがいたから今のコマツがある」と銅像を見上げた。 (敬称略)

  (コマツ編おわり)

 たけうち・めいたろう 1860(万延元)年2月28日、高知県宿毛市に生まれる。吉田茂元首相は実弟。父、綱とともに佐賀県唐津市の芳谷炭坑を経営。94年、竹内鉱業を創立し取締役に就任。全国の炭坑、鉱山の運営に当たる。1902年、石川県小松市の遊泉寺銅山を買収し規模を拡大した。資金と人材を提供し08年の早稲田大理工科(現理工学部)開設に貢献したことで知られる。28年3月23日、68歳で死去。

 竹内明太郎とダットサン ダットサンは日産自動車の前身のダット自動車製造が1931(昭和6)年に開発した自動車のブランド。ダット自動車製造の前身の快進社を支援した田(でん)健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字「DAT」に息子の意味の「SON」を付けてダットソンと呼ばれた。後にソンは損に通じると太陽の「SUN」に変え、ダットサンになったとされる。

 

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