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挑戦 北陸財界ものがたり

コマツ(2) 設計図は生き続けた

テスト中のG40ブルドーザー=コマツ提供

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 「あれがあったな」「ありますよ」。一九四五(昭和二十)年秋、西沢集(90)=石川県小松市=は即座に答えた。終戦直後に焼却処分され、どこにもないはずのブルドーザーの設計図。それが小松市の小松製作所(現・コマツ)粟津工場に残っていた。

 西沢は当時、ブルドーザーなどの設計を担当していた。敗戦で設計図や作業指示図など軍関係の資料は焼却するよう指示を受け、終戦三日後の八月十八日から数日かけて燃やした。

 しかし、西沢は「図面は技術者の魂。皆が苦労して作り上げた技術の塊だ。会社が再建されれば必ず役立つと考えた」という。同市島町にあった別の工場の防空壕(ごう)に原図を埋め、土をかぶせて隠した。焼いたのは写しだった、と明かす。

 ぬれないよう油紙で包んだ図面は段ボール箱十箱余り。防空壕から掘り出した美濃紙の和紙に墨で書いた図面は水を吸ってぼこぼこに膨らんでいた。西沢は一枚ずつ丁寧にはがし、陰干しした後、アイロンをかけて乾かした。

 戦後の復興にはブルドーザーが不可欠だった。戦時中に戦車などを造っていた国内の機械メーカーは次々に生産を目指す。だが小松製作所には戦前からブルドーザーの実績があった。粟津工場に残っていた設計図も役立ち四七年秋、戦後の一号機「D50」を完成させる。

 技術陣はさらに性能と品質の向上に努力。五〇年にD50を大型化した「D80」、五三年にはさらに大きな「D120」を開発し、生産を始める。以降、小松製作所は日本のブルドーザーをリードしていく。

 「小松製作所五十年の歩み」によるとブルドーザー開発は四〇年九月、陸軍から中国東北部の湿地帯に戦車用の道路を造るためのブルドーザーの設計を依頼されたのが始まり。だが一年後、太平洋戦争が始まり、対ソ連(当時)用の車の製作は中止になった。

 四二年十二月、今度は海軍が飛行場を建設するためブルドーザーの製作を命令した。納期は一カ月半しかなく、既にあったG40トラクターに当時画期的な油圧式の排土板を取り付けたG40ブルドーザーを開発、粟津工場で組み立てた。海軍での名称「小松1型均土機」が国産ブルドーザーの元祖となる。

 四三年から四四年にかけ陸軍の命令で「土工用牽引(けんいん)車」(略称トイ車)八十台を製作し納入。南方での航空基地整備や道路建設などに活躍した。その後もトイ車を改良したトロ車、大型化したトハ車を一台ずつ試作した。

 日本がブルドーザーの威力を知ったのは太平洋戦争だった。米軍は占領した島にブルドーザーを持ち込み、飛行場をすばやく造成し出撃基地にした。作家阿川弘之は小説「米内光政」で、北太平洋のウェーキ島を攻略した海軍が、米軍の残したブルドーザーを見つけて性能に驚く様子を描いている。

  (敬称略)

 ブルドーザー 前面に排土板を付けて土砂を押し出したり地面を削ったりする土木建設機械。土を動かす作業をしていた牛(英語でブル)がブルドーザーの登場で仕事がなくなり居眠り(ドウズ)するようになったことから名前が付いたといわれた。しかし、現在では雄牛に薬を与えるという英語「ブルドウズ」が強引に物事を推し進める意味になり、ブルドーザーの名称になったとの説が有力とされる。コマツのG40ブルドーザーは2007年、日本機械学会から機械遺産に認定された。

 

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