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挑戦 北陸財界ものがたり

コマツ(1) 争議収めた中興の祖

河合良成氏=コマツ提供

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 「柿の木は古い葉を落とし、枝を切って初めていい実をつける」。小松製作所(現・コマツ)小松工場=石川県小松市、当時=で初めてあいさつした社長の河合良成は近くの柿の木を揺すりだした。今度の社長はどんな男かと見守っていた社員はあっけにとられる。河合は落ちる枯れ葉を指さし「小松も労働争議で古いものは捨てた。さあ皆さん。これから私と一緒にやりましょう」。河合の話に社員はやる気になった。

 松尾博志は著書「小松製作所の奇蹟 断固たる決断」で古い従業員の話を紹介している。コマツOBでブルドーザーなどの設計を担当した西沢集(90)=小松市=は覚えていた。「河合さんは設計室の前の広場で話をされた。話がうまかった」。OBの林一雄(90)=同=も「厚生大臣、東京の助役もしたと聞き、これは大変な人が来たと思った」。

 当時、全国で吹き荒れた労働争議の中でも小松製作所は「西の小松、東の東宝」と言われるほど激しかった。一九四七(昭和二十二)年七月、インフレに苦しみ賃上げを求める労働組合に、経営が危機に陥っていた会社側は要求を拒否し紛糾。ストライキが起き、百日闘争といわれる大争議に発展した。小松労組三十年史は「重役室の天井裏に一升とっくりとにぎり飯を持って忍び込み、会議を盗聴する出来事もあった」とその激しさを記している。

 農林次官だった河合は食糧増産のため、小松製作所に農耕用トラクターの製造を勧めた。だが連合国軍総司令部(GHQ)がトラクターへのガソリン供給停止を命令。農林省がトラクターの発注を取り消したため会社は大きな打撃を受けた。責任を感じた河合は四七年十月十三日、小松工場を訪れ労組を説得する。

 河合は自著「孤軍奮闘の三十年」で当時を振り返る。「会社には金がない。銀行から借りるよりほかない。君らが出社して働く方が借りられるか。ストライキを継続した方がいいか」。河合が質問すると労組は「それは出勤した方が融資を受けやすい」と答える。長期の争議で疲れ果てていた労組は「明日、大会を開き、あさってから仕事に入りましょう」。百日闘争は三時間で終わった。

 河合は事前に復興金融金庫から融資の見通しを付けていた。松尾は著書で「三時間での争議解決の陰には(河合の)綿密な計算と努力があった」と指摘する。川崎工場長などを務め東京本社での会議で河合と同席した杉田定雄(93)=小松市=は「国家的な大物だった河合さんが乗り出したから解決できた」と考えている。

 争議が収束すると経営陣は河合の社長就任を求めた。固辞する河合に金融関係も受諾を迫り社長を引き受ける。四七年十二月二十三日、就任。ここから河合の進撃が始まる。 (敬称略)

 かわい・よしなり 1886(明治19)年5月10日、富山県福光町(現・南砺市)生まれ。父の仕事で高岡市に移り旧制高岡中学校から旧制四高、東京帝大法学部を卒業。1911年に農商務省に入り19年、退官。東京市助役などを務め戦後は農林次官、第1次吉田茂内閣の厚生大臣に就任。公職追放となるが解除後に衆院議員に当選する。47年に小松製作所社長となり64年、会長。この間、62年に花のまちづくりなどを進める「日本花の会」を設立する。70年5月14日、死去。84歳。

 

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