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挑戦 北陸財界ものがたり

YKK(1) ファスナー「鬼」の原点

吉田忠雄氏=YKK提供

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 東京の空を赤く染めた炎と降り注ぐ焼夷弾(しょういだん)の中を従業員や妻駒子と逃げ惑い、やっと帰り着いた工場は全焼していた。故郷の富山県魚津に工場の疎開を決め、準備も終えた出発前日の夜だった。「やるぞ、やるぞ、B29なんかに負けんぞ」−。拾った軍刀を空に突き上げ吉田忠雄は大声で叫んだ。自伝「ファスナーの鬼」で一九四五(昭和二十)年三月十日の東京大空襲を克明につづっている。

 YKKを創業した吉田は二八(昭和三)年十月、二十歳で富山県魚津から単身上京。中国陶器の輸入商、古谷商店で働いた。ここで吉田はファスナーと出会う。店を閉めることになった古谷商店に残ったファスナーを卸元から借り、六年後に個人商店・サンエス商会を設立して独立。日本橋蛎殻町で商売を始めた。二十五歳の出発だった。

 古谷商店で一緒だった同郷の吉川喜一(後の副社長、当時十九歳)と高橋利雄(同、当時十四歳)の三人で店と作業所、住宅を兼ねた木造三階建てに同居。三人でファスナーの不良部分を切り取り、ファスナーを開閉する部品(スライダー)も一つずつ金づちでたたいて品質を確かめて売った。

 一九三六(昭和十一)年には米国、メキシコなどを皮切りに輸出を始める。しかし、インドに輸出した三千ダースがすべて返品されるトラブルがあった。納期に追われ外注した一部製品に不良品が多いという理由だった。

吉田忠雄が設立したサンエス商会=東京・日本橋蛎殻町で(YKK提供)

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 吉田は「納得のいく良い製品を作るには、どんな部品も他人任せにしてはいけない」と胸に刻む。それが原料から製品までの一貫生産という経営理念につながった。「万が一、不良品がでたら、という言い方は許されない。消費者が手にしたファスナーはその時一回の出合い。一つが不良品であればYKKのファスナーはすべてダメだと思われてしまう」。後年、吉田は話した。

 空襲で焼けた工場を東京・江戸川区小松川に建てたのは三八(昭和十三)年三月。この年、社名も吉田工業所と改める。焼け出され魚津に移転した工場で終戦を迎えた吉田は焼けたミシンを修理。吉田工業株式会社と社名を変え、ファスナー作りを始めた。戦後の製品第一号を完成させたのは四五(昭和二十)年十一月三日。たった一人の再出発だった。 (敬称略)

 よしだ・ただお 1908(明治41)年9月19日、富山県魚津市生まれ。小学校を首席で卒業。20歳で徴兵検査を終えると1928(昭和3)年に上京し中国陶器の輸入商・古谷商店に入店した。中国との貿易などに携わった後、独立し34年1月1日、東京・日本橋でファスナーの加工販売会社「サンエス商会」を創業した。93年7月3日、84歳で死去。

 

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