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挑戦 北陸財界ものがたり

北陸電力(5) “工業の灯”絶やさず

金岡、山田が工場を誘致した伏木港一帯が工業県・富山の基礎を築いた=富山県高岡市で

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 「ミイラ取りがミイラになってもらっちゃ困るよ」。にらみつける富山電気社長の金岡又左衛門に山田昌作は「お願いして工場を建ててくださった方を見殺しにするとおっしゃるなら、私はやめさせていただきます」と言い切った。

 金岡、山田が富山県伏木港一帯に誘致した電気製鉄(現JFEマテリアル)は第一次世界大戦後の不況に苦しみ、親会社の日本鋼管も苦境に立たされた。日本鋼管に合併された電気製鉄は電気料金を滞納。「山田昌作伝」によると金岡から回収を命じられ経営トップの白石元治郎に会った山田は逆に融資を依頼され金岡の怒りを買う。しかし、山田の説得を受け金岡は支援を許す。

 一九一六(大正五)年、富山電気に常務として迎えられた山田は翌年以降、金岡とともに電気製鉄、北海電化工業(現日本重化学工業)などの企業を伏木港一帯に誘致した。富山市には山田の働き掛けで伊藤忠兵衛が呉羽紡績を設立したのをきっかけに多くの繊維関係企業が進出した。

 企業誘致には、電力の販売先を確保する狙いもあった。しかし、富山電灯から社名を変更した富山電気は、金岡と山田が採算を度外視した破格の料金で電力を供給することで、地域経済の発展を目指した。

 「北陸電気産業開発史」によると呉羽紡績の誘致で山田は、日本海電気が出資するだけでなく、社員や知人にも出資を勧めるなど地元から資本を募って中央の企業とともに会社を設立する手法も推し進めた。戦前に誘致された企業の多くは戦後の混乱期や石油ショックなどの危機を経ても撤退することなく操業している。

 富山市の企画会社「グループフィリア」社長の森田弘美(63)=富山市=は「山田は企業を誘致したら終わりでなく、大事なときには手助けした。それで企業が地域に根付いた。進出企業に地域の資本を入れる戦略もすごい」と分析する。県内企業の社史の企画編集などを通じて山田の功績を知った森田は金沢大大学院に社会人入学して山田を研究した。

 一橋大大学院商学研究科の橘川武郎教授は著書「日本電力業発展のダイナミズム」で「日本全国を見渡しても、地域経済と電気事業との相互増幅的な関係が北陸地方ほど明瞭な形で現出した地域は発見できない」と山田の業績を高く評価する。

 幾多の危機を乗り越えた北陸電力は水力百二十九カ所(百九十一万三千キロワット)、火力六カ所(四百四十万キロワット)の発電所を持ち、原発も石川県志賀町に九三年七月に1号機、二〇〇六年三月に2号機がそれぞれ運転を始めた。1号機は一一年二月末にポンプの不具合で停止、2号機も東日本大震災が発生した同年三月十一日に定期検査に入ったまま、いずれも再稼働できずにいる。風力や太陽光を含めると発電設備は百四十三カ所で八百六万八千キロワット(二〇一四年三月末現在)ある。

  (敬称略)

 農業の電化 電力会社による地域経済振興は工業だけではなかった。北陸地方電気事業百年史(北陸電力)によれば、北陸地方でかんがい用以外の農業に電力が使われたのは1924(大正13)年に富山県佐野村(現高岡市)で脱穀、もみすり、精米が始まりとされる。27年には高岡市内で電熱による鶏卵増産が進められた。日本海電気は割安な料金設定などで支援。北陸電気産業開発史は39年に能登半島であった全国最大規模の誘蛾(ゆうが)灯の集団利用が成果を挙げたと伝えている。

 

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