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挑戦 北陸財界ものがたり

北陸電力(3) 社運賭け有峰に立つ

有峰ダムの建設現場を視察する松永安左エ門(左から4人目)と山田昌作(同5人目)=1958年11月(北陸電力提供)

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 「父は口でどうこう言うのでなく、自分で現場へ行って納得するまで目で見て確かめていた」。北陸電力初代社長となった山田昌作の次女河合益子(95)=富山市=は、各地の発電所建設現場に同行し、仕事に打ち込む父親の姿を間近に見た。

 一九五八(昭和三十三)年十一月三日、富山県の南端、岐阜県との境に近い有峰(ありみね)に山田と松永安左エ門の姿があった。戦前戦後の日本電力界の動乱を乗り越え苦労を共にした二人はダム建設が進む一帯を視察、遠く薬師岳を望み万歳を三唱した。

 終戦直後の電力再編成で区域内の多くの有力発電所が関西電力などに帰属し電力不足に苦しんだ北陸電力。山田が注目したのが常願寺川の支流、和田川の上流に位置する有峰盆地だった。

 三六年、富山県が県営の電気事業として着手。ダムと発電所の建設を目指しながら戦時中の資材不足で断念し、ダムの基礎部分だけが残されていた。山田はそこに巨大ダムと発電所建設を計画した。

 五三年夏にがんを手術したばかり。それでも山田は病後の体を押して現場に通い、担当者らを励ました。河合は「周囲の人が社長は技師でないのに知識はすごい、かなわない、とよく言っていた」と振り返る。

 富山側からはけもの道しかなく、山田は岐阜県側から県境の大多和峠を越えた。富山中学の講師時代に野球の試合で右足のアキレスけんを切った山田は、時にはかごに乗って回った。松永が有峰を視察した時も一緒に行った河合は「家では厳しかった。けれど苦しいことがあっても心に秘めるタイプ。口にも顔にもけっして出さなかった」と父をしのぶ。

 ダムでできた広大な有峰湖のほとりに立つ有峰記念館は、山田の功績をはじめ計画のあらましや開発の歴史を写真パネルなどで展示して今に伝える。館長を務めた三浦久信(80)=富山県上市町=は当時、有峰で発電所建設に向けた調査測量を担当。山田が看護師同伴で現場に来たことを覚えている。「山田さんは元気そうだった。社運を賭けた大事業だったのだろう。山田さんは着工前から何度も現場に入られた」。意欲に燃える山田の姿を忘れられないでいる。 (敬称略)

 常願寺川有峰発電計画 北陸電力が富山県中央部を流れる常願寺川の支流、和田川上流にある有峰に高さ140メートル、本体の長さ500メートル、総貯水量2億3000万トンの有峰ダムを築き、水力発電所を建設する計画。ダムは1956年9月に着工、60年8月に完成。ダムを中心に7カ所の発電所を新増設した。

 電気事業再編成 1951年5月に発足した地域別の電力会社9社でそれぞれ発電、送電、配電まで一貫して担う体制を整えたことを指す。49年に設置された電気事業再編成審議会で、会長の松永安左エ門が民間9電力体制を主張したが、他の委員は戦前に国が発電・送電を統合した日本発送電の温存を図り紛糾。連合国軍総司令部(GHQ)が松永案を支持する形で決着した。

 

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