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挑戦 北陸財界ものがたり

北陸電力(1) 「独立死守」国動かす

山田昌作=北陸電力提供

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 一九四一(昭和十六)年四月、戦争遂行に向けて電力の国家管理を目指す政府は全国を八ブロックに分け、それぞれ一つの配電会社を設けることを決めた。北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国そして九州。北陸の二文字はそこになかった。

 「そんなばかなことがあるものか。たたき壊してやる」。河野幸之助著「山田昌作伝」は当時、北陸電力の前身、日本海電気の社長だった山田の怒りを記す。河川の豊富な水の恵み・電力は中央が持ち去り、地元住民は豪雪、雪解けの洪水という苦しみだけを背負うのか。山田にとって北陸は、中部の一部であってはならなかった。

 山田は政府案を変更させると決心した。上京した山田は電力業界の長老で東邦電力(現・中部電力)社長も務め「電力の鬼」といわれた松永安左エ門に会う。「北陸の特殊性を無視して中部の北陸支店としてしまえば北陸に芽生えた産業の芽は枯れてしまう」。山田の訴えに松永は理解を示す。

 山田は北陸三県の電気事業者に働き掛け、十二社による自主統合を実現させて北陸の一体性を示していた。山田は病をおして毎晩遅くまでかかって陳情書を作り所管の逓信省に提出。大臣、次官から関係の局や部、課の担当者まで毎日部屋から部屋を回って地理、歴史、産業まで北陸の特徴を説き、中部ブロックからの北陸独立を主張した。

 一つの例外を認めれば次々と広がる。逓信省は一切受け付けなかった。「国家の非常時に一地方の利益を主張する利己的な行動」との批判もあった。しかし、山田は相手が嫌がっても構わず日参した。昼も夜も関係なかった。当時、逓信省書記官で後に電力局長、参院議員となる古池信三は正治清英著「北陸電気産業開発史」で「山田社長は毎日のように訪問された。大臣からわれわれにいたるまで、その熱誠あふれる説得には感服するとともに参った」と明かす。

 山田の懸命の努力で関係者も理解を示し始める。逓信省は八月、「将来、必要の生じた時には東海(中部)地区に統合することがある」との条件付きで北陸ブロックを認めた。北陸電力十年史の冒頭あいさつで山田は「もし中部の北陸支社になっていたとすれば、今日の北陸電力は存在しなかった」と振り返る。だが戦後、発足した北陸電力は、早くも危機に直面する。 (敬称略)

 ◇ 

 北陸地方では度重なる危機を懸命の努力で乗り越え、新しい技術に挑むことで繁栄を勝ち取ってきた多くの企業がある。機械や金属などのものづくり産業、百貨店などの老舗企業が不況や戦争の痛手からいかに立ち上がり、その後の発展に結び付けていったのか。北陸財界の歩みを振り返る。最初は、戦前戦後、電源の確保に苦闘しながら住民の生活安定と地元の工業振興に大きな役割を果たした北陸電力の原点を探る。

 やまだ・しょうさく 1890(明治23)年3月29日、富山市生まれ。旧制富山中学(現・富山高校)から旧制四高、東京帝大法学部を卒業。富山中学の講師を務めた後、27歳で富山電気の常務に就任。日本海電気と改称後、創業者金岡又左衛門の死去に伴い40歳で社長となる。12社の自主統合による北陸合同電気、次いで北陸配電の社長を務め1951年5月、北陸電力の発足とともに初代社長となり59年に辞任する。晩年、がん研究会(東京)の付属病院建設などを支援した。63年2月25日、72歳で死去。

 

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