トップ > 北陸中日新聞から > 北陸文化 > 記事一覧 > 12月の記事一覧 > 記事

ここから本文

北陸文化

【寄稿】吉岡康暢 横江荘1200年記念シンポ 白山市

横江荘遺跡について討議するシンポジウムのパネリスト=石川県白山市で

写真

回廊状建物寺院か郡庁か

 「平安のドラマ・横江荘は語る−立荘千二百年記念シンポジウム」が十月十四日、石川県白山市の市民交流センターで開催された。大阪歴史博物館の栄原永遠男館長、島根大の大橋泰夫教授、法政大の小口雅史教授ら県外の荘園研究者も加わり、約二百人が参加する盛況だった。

 横江荘遺跡は、一九七〇(昭和四十五)年の発掘で、国内最初の荘園遺跡と認定され、国史跡に指定された。その後の調査で、荘園を現地で管理する「荘家(しょうか)」を中心に広がる荘田へ入植した百姓の民家が散在する「荘園村落」のイメージを一新する巨大な官衙(かんが)(役所)遺跡であることが分かった。

 □ □

 遺跡は三筋の小河川で画された、東西六百メートル、南北三百五十メートルほどの用地に、一辺約五十メートルの回廊状建物(寺院または郡庁か)が中央に設けられ、周囲に荘家、複数の役所、倉庫群と祭場が計画的に配置される構造は、全国に例がない。安原川を介して渤海国使を迎えた犀川河口の国際港・佐利翼津(さりよのつ)へ通じ、南方の石川平野を斜行する古代の北陸道の駅家(うまや)に連係する景観は、水の都・平安京にならった“古代石川の小京都”の感がある。

 横江荘は、七九四年に平城京(奈良)から平安京(京都)へ遷都した桓武天皇の皇女・朝原内親王(母は光仁天皇妃)が伊勢神宮の斎王(四〜十八歳)を務めた労をねぎらい与えられた「親王賜田」として成立した。ほどなく早逝(そうせい)した内親王の遺言により、八一八年に東大寺へ寄進されたことが知られている。官衛を構成する荘家の建物が先行するが、回廊状建物と倉庫群の造営は、古代で国制施行の最後となる加賀国の立国、石川郡の誕生と重なることが問題となる。

 加賀国が越前国から独立したのは八二三年六月だが、一月に奈良仏教を刷新する密教道場として東寺が空海に与えられ、四月に嵯峨天皇から淳和天皇への譲位、十一月には渤海国使が加賀へ来航している。加えて、このころ北陸では異常気象による飢饉(ききん)年が続くなど、激動する社会への対応を迫られた律令(りつりょう)国家による「新政」に、在地住民がいかに関わったかが議論された。

 北加賀には伝統的な豪族・道君(みちのきみ)が蟠踞(ばんきょ)し、桓武の父光仁天皇はかつて一族の伊羅都売(いらつめ)が、天智天皇へ嫁いで三代目の孫である。地元の有力者横江臣(おみ)らとともに郡司(ぐんじ)として開発プロジェクトや荘園の経営に参画した可能性は高い。その場合、遺跡の中枢を占める回廊状建物が石川郡庁であれば、荘園の経営を郡家(ぐうけ)が請け負う九世紀の方式として納得できる。しかし寺院とすると、異例の郡庁に似た官寺?となり、桓武と内親王の鎮魂の寺とでもしない限り、説明が難しい。

 □ □

 沈黙資料による考古学で、どこまで新たな古代史像が提示できるのかが、あらためて問われている。その意味で、横江荘の成立時に四至(しいし)と坪付(つぼつけ)(境界と耕地図)が文献資料にみえない理由が不明だったが、現地の調査で、すでに隣接地の開田が進み、条里プランにもとづく坪付を示す木簡も出土し、記載は必要なかったと判断できよう。

 今回のシンポジウムを踏まえ、手取川扇状地の開拓に挑んだ古代人の苦難と創意を追体験できる史跡公園の整備が、市民参加で進められることを期待したい。(よしおか・やすのぶ=国立歴史民俗博物館名誉教授、元石川県立歴史博物館長)

 

この記事を印刷する

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索