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北陸文化

【悲しびの家持】(下) 家持最大の悲劇

死後 冤罪で除名処分

 大伴家持が陸奥で亡くなって二十日余り。まだ埋葬も終わっていない延暦四(七八五)年九月二十三日、家持生前の不安は的中する。

 桓武天皇の寵臣(ちょうしん)藤原種継が、造営中の新都長岡京を巡回中に暗殺されたのである。「両箭(りょうせん)身を貫きて」(二つの矢が体を貫いて)と史書「日本紀略」は生々しく記す。厳しい捜査の結果、首謀者として大伴一族の継人、竹良らが逮捕された。

 種継と早良親王が遷都をめぐり対立していたこと、逮捕者の中に家持が長官を務める春宮坊の官人が多かったことから、亡き家持にも嫌疑がかかった。

 拷問を受け継人は“自供”する。「亡き家持が種継を除けと謀り、早良親王に申し上げて実行したのだ」。継人らは即刻首をはねられた。

 死せる家持には「除名」の処分が下った。あらゆる官位を剥奪、身分を庶民とし財産のすべてを没収する刑である。越前国加賀郡(現石川県北加賀地方)にあった荘園も没収された。子息の永主は隠岐に配流となった。一族から何人もが死罪、流罪となった。

 早良親王が天皇に即位すれば、大伴氏には輝かしい未来が約束されていた。種継暗殺という愚挙に出る必要など全くないのである。藤原氏と大伴氏の権力闘争、藤原氏の内部抗争、天皇位を我が子安殿親王(後の平城天皇)に継がせたい桓武天皇の思惑などが複雑にからみあった奇怪な事件であった。早良親王や大伴一族にとっては冤罪(えんざい)であったろう。

 早良親王は淡路島に配流となった。兄桓武天皇への激しい抗議であろう。親王は自ら食を絶ち護送中に憤死する。

 ここに古代の名門大伴氏の没落が決定づけられる。家持が復権するのは事件から二十一年後の延暦二十五(八〇六)年三月十七日、桓武天皇臨終の際であった。「大伴家持を従三位に復す」。晩年、早良親王の怨霊に悩み続けた天皇の衰弱した声が聞こえそうだ。

 因幡国庁での「新しき年の始めの初春の 今日降る雪のいや重け吉事」の後、家持は歌を詠んだのかどうか。新古今和歌集と小倉百人一首には家持の作として「かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞふけにける」が残る。王朝文学の情趣に満ち家持の作ではないというのが一般的な見方だ。

 古代の人々は宴の中で歌を詠んだ。「新しき…」の後も、家持は数々の宴で多くの歌を披露したことだろう。ただ、その歌は虚空に消え永遠に私たちに届くことはない。(この連載は小松泰静が担当しました)

 

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