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北陸文化

【悲しびの家持】(中) 出世 東北平定の任

都に気がかり不帰の旅

 都では藤原仲麻呂の専横と反乱、敗死、天皇に返り咲いた称徳女帝(孝謙上皇重祚(ちょうそ))の寵臣(ちょうしん)道鏡による政治への介入など混乱が続いていた。大伴家持は因幡国守の後、薩摩、大宰府など地方を転々とする。出世のバロメーターといえる位階は越中時代の「従五位上」のままだった。

 称徳女帝が亡くなり光仁天皇が即位すると、家持に“遅すぎた春”がやってくる。宝亀元(七七〇)年に「正五位下」と二十一年ぶりに昇叙したのに続き官位は順調に上がった。同十一年参議。現代に例えれば入閣である。天応元(七八一)年、ついに従三位となる。当時三位以上を「貴」、四〜五位を「通貴」といい、両者の間には身分、待遇に圧倒的な差があった。

 光仁天皇が引退し子の桓武天皇が即位。光仁天皇の意思で桓武天皇の同母弟・早良親王が皇太子となる。家持は皇太子を世話する春宮坊の長官春宮大夫を拝命。その後中納言、延暦三(七八四)年二月、東北平定の任を帯びた持節征東将軍を兼務する。

 「持節」とは天皇から「節刀」を授与されたこと。天皇大権である軍人の処罰権を預かったことを意味する。武門の家大伴氏にふさわしい人事だったが、家持は一抹の不安を抱いていた。

 それは父旅人が存命中、大宰帥として九州に赴任して間もなく、藤原氏の謀略で左大臣長屋王が謀反の疑いをかけられ妻子とともに自尽させられたことだった。皇親政治を推進する長屋王は父の盟友であり、藤原氏と対立関係にあった。藤原氏は長屋王を排除するために旅人を体よく都から遠ざけたのだ。

 今、桓武天皇の寵臣で長岡京遷都を推進する藤原種継と、家持が仕える皇太子早良親王は遷都をめぐり厳しく対立していた。家持は早良親王と大伴一族の行く末を案じつつ陸奥へと旅立ち、翌延暦四年八月二十八日不帰の客となる。享年六十八。

 家持の死亡地について当時の正史「続日本紀」は何も記さない。歴代閣僚名簿といえる「公卿補任」に「在陸奥」とあるだけだ。

 学説には陸奥説と在京説があるが、東北平定は遷都と並ぶ桓武天皇の二大事業の一つ。節刀を授けられた以上、陸奥国にあったと考えるのが妥当だろう。節刀は、それを持ったまま家に帰ることも許されないほど重みのあるものなのだ。

 陸奥国多賀城の死の床にあって、家持の胸に去来したものは何だったろうか。父旅人と過ごした大宰府での少年時代、都での華やかな恋の数々、越中の自然と風土、夭折(ようせつ)した弟書持…。そして何よりも都に残した妻坂上大嬢と子息永主のことだったろう。

 

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