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北陸文化

【悲しびの家持】(上) 寿ぎと諦観 武門の名家に政敵の影

因幡国庁跡。家持はここで万葉集最後の歌を詠んだ=鳥取市国府町中郷で(鳥取市教委提供)

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 大伴家持を「悲劇の歌人」とも「憂愁の歌人」ともいう。若き家持が越中国守時代、越中(当時能登含む)で詠んだ歌は万葉集中二百二十三首に及ぶ。そこからは後年家持を襲う悲しみと悲劇の実相を知ることはできない。史書を頼りに家持の悲しみに迫った。 (小松泰静)

 「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」。万葉集四千五百十六首の掉尾(とうび)を飾る家持の短歌である。この歌をもって万葉集はすべての巻を閉じる。

 天平宝字三(七五九)年正月一日、因幡(現鳥取県)国守の家持は国庁に部下たちを集め新年の宴を開いた。今日降る雪のように皆さんと大伴一族に良いことが重なってほしい−。新年を寿(ことほ)ぐ歌であるが、家持の諦観にも似た悲しみが漂ってはいないだろうか。

 越中国守に次ぐ二度目の地方勤務。政敵藤原仲麻呂に警戒されての明らかな左遷であった。越中を離れ七年余りの間に家持を取り巻く情勢は大きく変わっていた。最も家持の心を痛めたのは藤原氏による軍事権の簒奪(さんだつ)であった。

 大伴氏の武力が天皇を支えた時代は遠く去り、法(律令(りつりょう))と官僚機構が整備されていたが、軍事組織の五衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府)は伝統的に大伴氏の影響下にあった。

 その武力を恐れた藤原氏は大伴氏から軍事権を奪おうと虎視眈々(たんたん)と狙っていた。その一つが神亀五(七二八)年に設置された新たな軍事組織「中衛府」である。五衛府より格上で精鋭を集めた中衛府は次第に藤原氏の私兵化し、大伴氏の武力をそいでゆく。

 かつて「大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」「みかどの守り われをおきて人はあらじ」と武門の家大伴氏の誇りを歌い上げた家持である。この誇りを支えるものが失われようとしている時、家持の悲しみはいかばかりだったろうか。

 「春の野に霞(かすみ)たなびきうら悲し この夕かげに鶯(うぐいす)鳴くも」「うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがり 情悲しも独りしおもへば」。後期万葉の傑作といわれる家持の名歌の誕生には、こうした背景があった。

 家持がこの歌を詠んで四年後の天平勝宝九(七五七)年、仲麻呂打倒を企図した橘奈良麻呂のクーデターは失敗。大伴氏の何人もが獄死あるいは流罪となった。焦った奈良麻呂側が仲麻呂の私兵となっている中衛府の官人にまで計画を打ち明けたことが原因だった。この後大伴氏は、その存在基盤ともいえる五衛府からも駆逐されていく。

 メモ 中衛府の長官中衛大将は、ほぼ藤原氏が独占。藤原仲麻呂の乱では最後まで仲麻呂側に付いた。中衛府に対抗して孝謙上皇側が設立したのが「授刀衛」。藤原氏の中の反仲麻呂派が中心となった。授刀衛と中衛府は後に左右近衛府となり、長官の近衛大将は従三位相当の高官として藤原氏の出世のステップとなる。

 

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